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龍之巣
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謹賀新年躍進号 特集 謎の人物、 畔亭数久 に迫る
奇譚クラブ(雑誌)風に年賀状を兼ねて畔亭数久特集本の様な物を作りました。
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表紙絵は畔亭数久がお手本としたのではないか?と思われるChéri Hérouard作品の中から干支に合わせた作品を選びました。

趣旨:
 『特集 謎の人物、畔亭数久に迫る』と題して、畔亭数久の人物像に迫りたいと思います。

 前半は、私(龍)の拙い研究の成果として畔亭数久=喜多玲子(須磨利之)であると考える様になった根拠を示し、後半には数久作品の(恐らく)全てを掲載しております。


活動期間:
 昭和29年2月~昭和31年4月までの約2年間。
 ※但し、後半は奇譚クラブが発禁となり長期休刊の為、実質的には約1年程度しかありません。畔亭数久と喜多玲子の活動期間の推移と仕事量仕事量推移※年月は雑誌のx年x月号を基準にしています。実働は二カ月以上前と思われます。
※KK通信は雑誌より先行していますので翌月分に加算しています。
※仕事量はカラーの場合モノクロの三倍、執筆は概ね2ページで絵1枚換算。


この様にCiscoSystemsの旧ロゴの様な2つ山に成ってしまいましたが、風俗草紙休刊期間のタイムラグや職場の移行期間等を考慮して平準化すれば違和感も無いと思います。実際、昭和29年9月号に掲載された牧場物語の挿絵にはサインの下にJune 5,1954と記載されており、つまり印刷・発行日の約三ヵ月前に書かれたものである事が判ります(それでもなお昭和29年9月は量が多過ぎた為かラフ画まで掲載しており苦労がうかがえます)。
従って、雑誌が3ヶ月遅れである事を考慮すれば、須磨利之の「あまとりあ」入社タイミングもピッタリと合致します。

昭和29年9月号23ページ、下の挿絵にJune 5,1954の記載。つまり6月5日に描かれた作品が三ヶ月後の9月号に掲載されている事が判る。
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昭和29年9月号147ページ、畔亭数久としては珍しいラフ画を掲載している事から多忙な活躍ぶりが窺われる。
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それ以降、主に昭和39年以降の奇譚クラブに掲載されている畔亭数久作品は全て再掲載です。
例:
昭和39年2月号 P39 -> 昭和30年1月号 P28
昭和39年2月号 P45 -> 昭和29年11月号 P14
昭和39年3月号 P34 -> 昭和29年11月号 P14
昭和39年3月号 P39 -> 昭和30年3月号 P16
昭和39年3月号 P41 -> 昭和29年11月号 P14
昭和39年3月号 P43 -> 昭和30年5月号 P61
昭和39年3月号 P44 -> 昭和30年1月号 P28
昭和39年3月号 P45 -> 昭和30年1月号 P28
昭和39年4月号 P42 -> 昭和30年3月号 P17
昭和39年4月号 P43 -> 昭和30年3月号 P17
昭和39年4月号 P47 -> 昭和29年12月号 P17
昭和39年4月号 P48 -> 昭和29年11月号 P15
昭和39年5月号 P37 -> 昭和30年3月号 P16
昭和39年5月号 P45 -> 昭和29年11月号 P15
昭和39年6月号 P43 -> 昭和30年3月号 P17
昭和39年6月号 P47 -> 昭和29年12月号 P17
~~~中略~~~
昭和41年7月号 P22 -> 昭和30年5月号 P138

画風:カストリ時代の喜多玲子(須磨利之)作品のうち畔亭数久の画風に酷似している例:例1:
この絵は左右で比べると顔の雰囲気、上下で比べると鼻の描き方(玲子作品と数久作品の男性)がそっくりだと思います。
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左上:喜多玲子 奇譚クラブ昭和26年9月号 P89
右上:畔亭数久 奇譚クラブ昭和30年1月号 P176
左下:畔亭数久 奇譚クラブ昭和30年1月号 P282
右下:畔亭数久 奇譚クラブ昭和30年2月号 P176

例2:
この絵は、全体のバランスや、胸の描き方がそっくりだと思います。
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上:㐂夛玲子 奇譚クラブ昭和26年11月号 目次
下:畔亭数久 奇譚クラブ昭和30年1月号 P176

 私が 畔亭数久 = 喜多玲子 だと考える様に成ったのは、上絵例2の目次にデカデカと描かれた赤い裸婦の絵を見た瞬間でした。
 当初、私はこの絵を見て当然の事として畔亭数久だと殆ど確信していたのですが、作者をよく見ると喜多玲子(㐂夛玲子)で、その直感的な違和感・疑問が出発点となり調査を開始しました。

初掲載で摘発、発禁
この特徴的で奇抜な責絵は奇譚クラブ本誌への初掲載にして早速摘発理由となって発禁処分を受けています。
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 作品全体を通して画風には統一感が有り顔の表情はどれも須磨が好きだったChéri Hérouard作品に似ていますが、構図には全く一貫性が無く、奇抜なアイデアによる責めや死をテーマにした作品などを好むキャラクターが演出されている様に思われます。責絵に挿入シーンが一つも無い事も特徴であり好感が持てます。こういった畔亭数久の特徴は、後の裏窓(かっぱ)に継承されているのではないかと思います。
 当時の須磨利之は奇譚クラブを辞め、続いて風俗草紙では摘発され、仕事面で迷走していた時期でもあり、自身の描きたい物を自由に描ける様に成った半面、奇譚クラブへと出戻りした事や、私生活の状況などから、奇抜で猟奇的・廃頽的な作品に走っていたのかもしれません。彼らしい細部に渡る繊細なタッチなど凡人には不可能な作品を多数遺していると思います。


筆跡:
赤丸で囲った“れ”の文字に注目下さい。
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上:奇譚クラブ 昭和29年9月号 P147 挿絵 “SUK”サインの有る畔亭数久作品
下:風俗草紙 昭和29年1月号 巻頭3色刷り口絵 “れいこ”サインの有る喜多玲子作品

“れ”の文字アップ
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左:奇譚クラブ 昭和29年9月号 P147 挿絵 “SUK”サインの有る畔亭数久作品
右:風俗草紙 昭和29年1月号 巻頭3色刷り口絵 “れいこ”サインの有る喜多玲子作品

この様に、畔亭数久と喜多玲子の筆跡は酷似しております。


人物:
 畔亭数久(クロテイ・ガズヒサ / クロテイ・スク / グロテスク 等、絵の印象に合わせて読み方を変えていた)は生没不明の謎の人物とされ、突出した奇抜な責め絵や猟奇的・頽廃的でありながら繊細で緻密な絵を描く画家として一部の愛好家に知られています。
 畔亭数久がKK通信にて数久操の名で初登場した際に京都在住の女流責絵画家として紹介されていますが、既に上記しました通り活動期間や筆跡や画風等を元に私(龍)の主観的で帰納的・蓋然的な推測によると喜多玲子(つまり須磨利之)のペンネームの一つではないか?と思われます。
 須磨は複数の画風を持っていて、それを使い分け別人に見せ掛ける事で、あたかも大勢の画家が奇譚クラブを作っているかの様に見せ掛けていた画家の21面相と言える存在ですから、一人の画家を作り出す事など造作無い事でしょう。
 須磨が奇譚クラブを去ったのが昭和28年中頃、畔亭数久の登場が昭和29年2月、ちょうどこの8ヵ月間の須磨は冒頭に掲載したグラフの通り風俗草紙で仕事をしています。その風俗草紙が昭和29年2月号(つまり1月発売時)に摘発され、不定期刊行に移行し10月で廃刊します。
 つまり風俗草紙の摘発に伴い一年経たずに出戻りする際、今迄とは極力異なる画風で自由奔放かつ自身が好きだったChéri Hérouardの画風を真似て人物像を作り出していたのではないか?と思います。
 畔亭数久が奇譚クラブでの活動を終える昭和31年初頭は須磨が裏窓(その前進である「かっぱ」)の編集長を始めた年と重なり、ここでも整合性が取れます。
 なほ、昭和39年頃から畔亭数久が奇譚クラブに再登場しますが、既に冒頭で例示しました通り、その絵は全て昭和29~30年に掲載された作品の再掲載である事を確認済みです。
 この様に、画風と活躍時期と筆跡が揃って須磨利之とピッタリ一致しますので、私(龍)としては確信をもって畔亭数久は須磨利之であると言えます。


サイン:
初期
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中期
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後期
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純和風の絵に用いられたサイン
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陰刻印影
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陽刻印影
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その他のサイン
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作品:
作品は画集、漫画/劇画、小説の挿絵など多岐に渡りますが、ここに掲載した物が恐らく全てです。

初投稿:昭和29年2月 KK通信
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奇譚クラブ本誌初掲載:昭和29年3月号(発禁処分)
この絵が原因となり3月号は発禁処分を受け発売4日目に回収されました。その為、流通量は少ないと思われます。この事実はKK通信3月号P4下段に記載が有ります。
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昭和29年4月号 注:左 <- 右
前号で発禁処分の原因と成った為、ペンネームを数久操から畔亭数久に変更したのではないか?と思われます。但し画風は変えずサインもSUKのままです。
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この絵はグロ過ぎて不評となり、以後、類似の絵は登場しません。

昭和29年5月号
戯文 黒髪
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切腹幻想
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通り魔 注:左 <- 右
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懸賞入選:半公刑 挿絵 注:左 <- 右
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北国湯場哀話 挿絵 注:左 <- 右
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 昭和29年6月号
戯文戯画 縄について
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画集
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昭和29年7月号
画集
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戯画 回転
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昭和29年8月号
戯画戯文 水着
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画集
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あるマゾヒストの手紙から 挿絵(サインがSUKでなくK.Sですが画風が酷似していた為掲載。但し挿絵として文面の雰囲気に合わせて普段の少女的な顔から大人の雰囲気の顔に切り替えているのではないか?そういう意味では須磨であっても畔亭数久としてではなく、K.Sはクロテイ・スクと一致はするが別のペンネームや合作なのかもしれない。 -> 他のK.S = 杉原虹児作品とは異なる雰囲気を感じるという私の感覚によるものですが・・・赤い部分を須磨利之が、黒い部分を杉原虹児が描いたのでは?という気がしています。)
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六月号読者通信欄I.J氏の手錠と水着の着想より
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昭和29年9月号
牧場物語 挿絵
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懸賞入選 続・半公刑 赤札囚 挿絵
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身を灼く女 挿絵(挿絵のみ掲載)
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戯画「どうしよう」
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昭和29年10月号
【絵物語】彼女をめぐる三人の男
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戯文戯画 舞妓
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夏子抄 「罪ある女」の日記 本文割愛、挿絵(サインはKAZU)のみ掲載
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変の字夜ばなし 本文割愛、挿絵(サインはKAZU)のみ掲載予定
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昭和29年11月号
戯画 意地わる責め
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キャンプの想い出(コミック形式 注:左 <- 右
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三つのシークレット 挿絵
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昭和29年12月号
戯画戯文 くすぐり責め
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画集
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百合子の冒険 挿絵
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懸賞入選 続・半公刑 脱走囚 挿絵
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浣腸遊戯について 挿絵
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昭和30年1月号
墨ぬり
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戯画 アイス・スケート
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懸賞入選 『色惚けのペーヂ』 挿絵
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百合子の冒険 挿絵
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畔亭雑記、ページ下は前月号の百合子の冒険6~7コマの間に挿入
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緊縛に関する十二章(本文割愛、絵と写真のみ掲載)
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黄昏(本文割愛、挿絵のみ掲載)
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女灸点師(本文割愛、挿絵のみ掲載)
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昭和30年2月号
戯画 雪国だより
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百合子の冒険 挿絵
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昭和30年3月
娘相撲
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私の体験記 挿絵 注:左 <- 右
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百合子の冒険 挿絵
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寄宿舎での体験 挿絵
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昭和30年4月号
孤獨 (本文省略、挿絵のみ掲載)
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昭和30年5月号(発禁処分)
笞のあと
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煙草 京都・R大生アイデア
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続々・女性切腹断想 本文割愛、挿絵のみ掲載
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懸賞原稿 佳作第一席 白面鬼 挿絵のみ掲載
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絵物語 スチュアデスの夢
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---以下、白表紙時代---

昭和30年10月号
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昭和30年11月号
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昭和31年1月:かっぱ(後の裏窓)創刊、同年9月より須磨利之が編集長に。

昭和31年4月号
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これ以降、畔亭数久の新作無し。
 

人間の子を生んだ猿の話
昭和25年12月 の奇譚クラブに掲載されておりました。
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実話なのか創作なのか判りませんが、実話だとしても有り得なくはない話だと思います。
ネタとしては現代の女性週刊誌に掲載されている様な記事です(女性週刊誌は日本にしかない文化の様です)。

獣 姦の物語ですが、物語はそこにフォーカスしているのではなく(獣 姦行為自体にフォーカスしてしまうと猥褻物陳列罪で摘発されてしまう為に省かれたのか、それとも想像を膨らませるためか?)主人公の男性が牝猿とそういった関係を持つに至るまでの経緯と、後にその牝猿が子連で居るところを山で見つけて・・・までの顛末が書かれています。

記事には書かれていませんが、遺伝子が99%同じ人間と猿であればイヌの異種間交配雑種と同様に交配可能だと思うのですが、実際に猿と人間が交配し産まれた雑種に人権は有るのか?、国民としての国籍は付与されるのか?、進学、就職など人として扱われるのか?それとも猿と同等の扱いで動物園で見世物として飼われるのか?仮に牝の子だった場合、それを動物園で見世物として飼う行為がどの様な影響を及ぼすのか、その子を殺した場合に殺人として裁かれるのか?それとも猿と同じく器物破損や動物愛護法などで裁かれるのか?・・・などなど、色々と考えさせられました。

以下、その内容です。
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読み辛い場合は、くろねこさんのHPで 74ページ75ページ を参照下さい。
奇譚クラブの転換点
様々な視点のうち、あまり注目されていなさそうな視点で転換点を探ってみます。
下記のタイトルで随時追記してゆきますので、ご興味の有る方は時々ブラウザでリロード操作をして下さい。

1:第三種郵便物認可
 定期刊行物に対する認可ですから、月刊化が確定した時期を洗い出す事が出来ます。

 1回目の認可:昭和25年(1950)10月5日 通刊25号~通刊80号まで
 2回目の認可:昭和31年(1956)4月20日 通刊85号~通刊325号まで

 ※後述の雑誌コード(旧:IBMナンバー)と照らし合わせて考えると、白表紙時代の初期から大手流通業者を利用した雑誌販売ルートが確立していた事が窺えます。

2:日本国有鉄道特別扱承認雑誌
 上記の第三種郵便物に加え、国鉄を活用した迅速な全国展開(多くは夜行貨物列車で輸送され、発売日の統一や運賃割引による遠隔地での定価販売など)に大きく関与しています。

 1回目の承認:昭和26年(1951)1月24日 特運 第1887号 通刊28~80号まで
 2回目の承認:昭和35年(1960)6月17日 大局 第122号 通刊145~228号まで
 3回目の承認:昭和42年(1967)4月21日 大局 第210号 通刊229~325号まで

 ※白表紙時代がスッポリ抜けている為、全国の小売書店での白表紙の店頭販売が実際に行われていなかった事の現われであると思われます。

3:取次店

3.1:大賣捌所(うりさばきしょ)
 カストリ時代の初期、通刊第2号~4号までの間、奥付に大賣捌所として立誠社が記載されています。大賣捌所とは明治時代~昭和初期の新聞・雑誌の取次店を指し、二次大戦を挟んで業界が大きく変化した過渡期の取次形態の様です。
 カストリ時代の初期は、取次を介さずに吉田氏が直接書店を巡って営業していたという通説が早くも創刊第2号で否定された格好ですが、4号を最後に取次を拒否されてやむなく5号以降は飛び込み営業していたのではないかと思われます。取次拒否に至る経緯は第3号で行われたGHQ検閲が関係しているのではないか?と思われます。

3.2:雑誌コード(旧:IBMナンバー)
 トーハンの様な出版大手取次店/流通業者を通す為には必須のコード番号で、一般に当初は4桁のIBMナンバーとしてスタートし、後に雑誌コードに改名して先頭に1桁追加し5桁に拡張後、更に下2桁が追加され5桁+2桁に拡張されましたが、IBMナンバー時代の4桁の番号を基本として拡張・継続利用されています。
 奇譚クラブでは曙書房時代の末期に2805番が付与され、その後、天星社・暁出版・きたん社と継続して同じ番号が利用され続けますが、発禁や会社変更とは全く関係ないタイミングで一旦停止され(裏表紙に印刷されなくなってしまう)10年後に復活している謎の期間が有る為、その前後関係から10年間(通刊150号~通刊273号)に渡って大手取次店/流通業者から出入り禁止に成っていた可能性が有り、その理由などを探ってみます。

  2805(IBMナンバー 曙書房時代):通刊79号~通刊80号まで
  2805(IBMナンバー 天星社時代):通刊83号~通刊149号まで
  2806(4桁雑誌コード 誤植?):通刊274号(臨時増刊)のみ
  2805(4桁雑誌コード 暁出版時代):通刊275号~通刊284号まで
  2805-xx(4桁+2桁雑誌コード 暁出版時代):通刊285号~通刊325号まで
 02805-xx(5桁+2桁雑誌コード きたん社時代):復刊1号~復刊11号まで
 05322-xx(5桁+2桁雑誌コード 平成版 ユニ報創):新装1号~新装3号まで

4:天星社 -> 暁出版(株)
 曙書房から天星社へ移行した理由は発禁処分への対応ですが、天星社から暁出版へ移行した時には発禁処分を受けていない為、移行理由はあまり知られていません(と思う)ので、探ってみようと思います。
 遡る2~3年前に東京都・神奈川県の条例で有害図書に指定され、同時に裏窓が廃刊、グラビアなどを自粛し有害図書の指定を取り下げてもらう取り組みを続けている最中の出来事の様でした。

5:グラビアと文章の比率及び総ページ数の推移

6:年表
 上記の視点に加え、白表紙時代や出版社名を記載した年表を作成してみました。
 (クリックで拡大)
 年表5

初期の奇譚クラブに対して行われた検閲の実態
--前提知識--

 奇譚クラブが発売されたのは戦後ですから、戦前の大日本帝国の憲兵や内務省や特高などが行っていた検閲とは異なり、連合国軍(GHQ)主導で奇譚クラブに対する検閲が行われています。表向きは検閲を撤廃した事にして『言論の自由』というキャッチコピーに騙された大衆に対して実際には戦前よりも強烈な言論統制と思想誘導が短期間のうちに連合国軍(GHQ)によって実施されています。

 郵便物に対する検閲に付いてはこの様な情報もあります。

昭和19年(1944)11月12日 米統合参謀本部命令書 JCS873/3
 GHQによる検閲とプロパガンダは、この命令書を根拠として実施された様です。

昭和20年(1945)8月15日 ポツダム宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)受諾、9月2日調印
 ポツダム宣言の10条には「言論の自由」が明記されている為、表向き検閲は禁止されます。

昭和20年(1945)9月19日プレスコード発効
 Supreme Command for Allied Powers Instruction Note 33 / Civil Intelligence Section : PRESS CODE FOR JAPAN.
 出版・放送(放送は3日後に発効されたSCAPIN43 RADIO CODE FOR JAPAN)・映画・論文などのあらゆるメディアに対してGHQによる戦前よりも厳しく、かつ、秘匿された言論統制が始まります。戦前の内務省による検閲、憲兵や特高による検閲では検閲している事を公開していましたが、戦後のGHQによる検閲は国民一般には非公開とされ言論の自由を喧伝し検閲を撤廃した様に偽装しながら検閲を行ない、検閲の結果として削除や改訂されたものは痕跡を残さない様に命令されていました。例えば新聞の場合、中山研一氏の『現代社会と治安法』(岩波書店 1970)によりますとプレスコードが発効された9月から翌年1月までの5ヶ月間で検閲により掲載を禁じられた記事が670もあった様ですが、これらは全て無かった事にされ当時の人々が目にする機会はありませんでした。奇譚クラブは、この様な時代背景の中で創刊されました。

 当時、戦前の教科書はGHQが指定した個所を教諭指導の下で生徒自らの手により黒塗りする指導が為され、戦前の出版物は大量に焚書(焼却)処分され、大手新聞社と放送局にはGHQの検閲官が常駐して事前検閲とプロパガンダが始まり、国内の全てのメディアに連合軍(主にアメリカ)を賛美・賞賛させ、逆に枢軸国(主に日本とドイツ)の旧体制を酷評・叱責させる放送番組・記事・映像作品・論文などを次々と発表(捏造する事も多々有った)させる事で大衆を思想誘導してゆきました。当初は放送局や新聞社・雑誌社・論文を書いた学者などに『事実と異なる嘘をつくな』といった内容の苦情が殺到しますがGHQ検閲官により全て黙殺する様に命令されていた為、読者や視聴者の怒りは全てのれんに腕押し常態となり、こういった反対意見は全く無いかの様に装い、かつ、極少数の賛成意見のみが読者や視聴者の意見として大々的にメディアを使って紹介されていました。

 この状態を数年続ければ大衆の思想は簡単に変えられてしまいます。

 しかし、一種の国際条約に相当するポツダム宣言の10条には「言論の自由」が明記されていますので、つまり条約に調印した17日後に、それを自ら破って検閲を開始、犯罪者が証拠を隠すのと同様、GHQは確信犯として裏で検閲を秘匿しながら、表でプロパガンダを言論の自由に乗せて大々的に喧伝していた事に成ります。

 この様にして各種メディアに対して検閲が行われましたが、特に雑誌に対してGHQが行った検閲の記録はGordon W. Prange Collection (University of Maryland)の地下倉庫に保管されており、奇譚クラブに付きましてもGHQ検閲官の考察を含む駄目だし資料が多数残されてる事を私(龍)自身の手で確認してまいりました。検閲を行なった当事者が資料として大学に持ち帰って保管していた物ですから信憑性が高いと言えます。しかし、この資料には検閲官(日本人の大学生が主に採用された)による検閲記載は残されていますが、それを元にGHQ側が行っていた処分内容(発禁処分や発行停止処分など)の記録は見付ける事が出来ませんでした。しかし探せば出てくる可能性は有ります。

昭和22年(1947)2月二・一ゼネスト中止命令
 戦後の連合軍内部分裂により皆さん御存知の通り資本主義勢力と共産主義勢力に別れ冷戦構造を構築してゆきますが、連合軍による日本(内地と朝鮮半島の南半分)の占領は資本主義(資本家による植民地支配主義)勢力であるアメリカ・イギリスが抑えた事により、内地は全面的に資本主義勢力の支配下に置かれ、結果、共産主義思想に対する思想弾圧が開始され、検閲にもその影響が出始めます。
 GHQは、当初、思想の自由を掲げて国内の監獄から政治犯を解放しましたが、その殆どは共産主義や社会主義の指導者達でした。つまり、戦前の政府は主に共産主義や社会主義の指導者を政治犯として検挙し投獄していたのですが、彼らが解放され、逆に戦前の指導者達が戦犯として投獄され反論や言論の自由を奪われ、当然の結果として国内(内地)では共産主義や社会主義が勢力を拡大してゆきました、しかし、GHQは解放しておきながら再度打倒すべく、検閲とプロパガンダの方針が戦前否定から赤狩りへとシフトしはじめプレスコードの運用に修正が入ります。
 つまり、これ以降の検閲とプロパガンダの方針が戦前の体制批判に加えて共産主義や社会主義廃絶の方向に軌道修正されてゆき、GHQは共産主義や社会主義勢力への対抗勢力として戦前の国内体制を部分的に復活させ、左翼からは逆コースと呼ばれる方針へと変化してゆきます。そもそも大日本帝国の帝国主義的な活動は英国や米国の資本主義(資本家による帝国主義や、資本家による植民地政策)を手本として、彼らの作った国際法に則っていた訳ですから、大日本帝国時代の体制であった方がシステム上は米英との親和性が高い事が容易に想像できると思います。

奇譚クラブ 出版と検閲の状況調査一覧
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 この一覧に掲載されていない号を御持ちでしたら、連絡を下さい


--奇譚クラブに対する検閲の実態--

昭和22年(1947)11月 創刊号~創刊第3号
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 創刊号(画像左)創刊2号(画像中)創刊3号(画像右)などは戦前のエログロ雑誌(今で言えば変態マニア専門誌)の様相ですが、この後、GHQの検閲により角が丸くなり、エログロや変態の様相は日本に主権の一部が戻る昭和27年5月まで御預けにされてしまい、それまでの間は角の取れた普通のエロ雑誌へと変貌してゆきます。
 創刊号で性器崇拝、創刊2号ではサディズムやマゾヒズムに関する記事、創刊3号には緊縛・吊るし絵なども登場しますが、創刊3号で初めて本格的な検閲が行われました。3号の検閲を担当したのはスズキ(検閲文書にはSUZUKIと記載)という日本語/英語が堪能な人物で、英文筆記体による箇条書きの概要解説を1月23日付けで残しています。3号の発行日は1月20日で、同日検閲所に到着した事を示す押印が検閲資料に残されており、かつ原稿等の製本前に検閲が行われた形跡が残されていない事から事後検閲と思われますが、この記録は事前に検閲を受けて改訂した後の再検閲である可能性を否定するものではありません。また、通常、出版物に印刷されている発行日は実際の発売日よりも1ヶ月程度後の日付ですので、この当時は実際の発売日の翌月に検閲所に現物が届いていたと思われます。
 ※ここまでは、グラビア無し

昭和23年(1948)2月 通刊第4号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 発行日から4ヶ月後の6月8日付けでGHQの下部組織である民間検閲支隊のT.MASUDAという人物によって検閲が行われPASSしています。検閲文書でのタイトルは“KIDAN CLUB”と書いてありますので「キダンクラブ」と読んでいた様です。検閲官による判定は「若い男女向けのポピュラーなフィクションマガジン」として無害認定されていますが、内容的にはエログロの要素も多少残している為、検閲官の裁量によるところが大きいと思われます。検閲記録は英文筆記体で検閲用紙2ページにビッシリと記載されています。
 2月発行(つまり発売は1月を予定していた)でありながら6月に検閲通過ですから、事前検閲期にこれをされたら半年くらい販売が停止していた事を意味します。カストリ誌が3号で潰れた直接の原因であろう事は容易に想像できると思います。

昭和23年(1948)3月 通刊第5号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 この写真はGHQの下部組織、民間検閲支隊(Civil Censorship Detachment)によりVIOL(Violation = 違反)判定を受けています。
 何の変哲も無い普通のヌード写真ですが、何が違反なのかというと白人のヌードを掲載した事が違反とされ、つまり白人を陵辱する事は許さないという事です。逆に日本人のヌードはOKでした。検閲の方針として、雑誌での性的表現を自由化するよう命じる一方で、白人ポルノや連合軍に於けるポルノについては言及するだけで削除を命じていた様です。実際、GHQ検閲の終わる昭和27年4月までは日本人女性であれば陰部や陰毛などもOKで、むしろ日本人ヌードでのこういった部位の描写はGHQ検閲の終了後に厳しくなります。但し日本人女性であっても連合軍(主に米兵)の行なった2万件にも及ぶ 強 姦 や、GHQの命令で設営された米兵相手の日本人慰安婦施設(及び慰安婦として採用された日本人女性)に言及する事は一切禁止(米兵の事を“大男”や“ボーイ”などと呼称する事で検閲を回避していた記事も有る=当時の犯罪記事で“大男”や“ボーイ”の記載は米兵の事)とされていました。
 創刊2号~4号は大賣捌所(うりさばきしょ)立誠社の記載が奥付にあり少なくとも創刊3号までは取次を介していた様ですが、創刊3号で受けた検閲の影響で立誠社から取り次ぎを拒否され、やむなく代理店を通さずに発行人の吉田氏が自分の足で書店を巡回営業しており、その為、検閲の前に何冊か出回った様です。

昭和23年(1948)4月 通刊第6号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 この号と次の号は日本語による検閲の記録が文章で残されていますが、何故か戦後の農協に関する記述でした。日本語の読めないアメリカ人宛に当て付けで無意味な文章を送ったのかもしれませんし、何かの暗号なのかもしれません。
 5号で違反の烙印を押された翌月ですから、芸術であれば(陵辱するのではなく崇拝対象として掲載すれば)違反には成らないだろうと考えたのか?(或いはその様に指導されたのか)前号同様に白人らしきモデル(日本人ではなく白人を起用した事から吉田氏の執念を感じます)の写真ですが、前号の様なヌード然とした写真ではなく、芸術作品っぽい構図になっています。が、この号は刑法175条(わいせつ物頒布等の罪)で摘発されました。摘発理由は複数あった様ですが、この摘発により裁判となり、争点は「わいせつ」か「芸術」か、という点で争われた様です。前号でGHQに目を付けられた事は明らかでしょう。後に有罪が確定し、五千円の罰金刑に成っています(当時の五千円は現代の価値にして約3~5万円)。吉田氏曰く「改訂命令のみであれば従ったが刑罰を加えられた為に法廷闘争に持ち込んだ」との事でした。思想的な面で摘発された場合は沖縄(当時の沖縄は米国の施政下にあった)での長期間の強制労働となりますが、罰金刑で済んでいる事から、芸術っぽい構図にした事が危険思想とは見なされなくなった要因の一つかもしれません。

昭和23年(1948)5月 通刊第7号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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5号、6号、と検閲に引っ掛かった為か、次の7号では、この様に検閲に屈してしまった写真で人種ばかりか性別さえも判別不能となっています。

昭和23年(1948)6月 通刊第8号
月刊誌ですから順当に行けば6月に第8号が発行されていたハズですが、第8号は発禁処分を受けた可能性が有ります。事実として7号から9号までの間の約半年間ほど発行されていませんし、4号が2月発行で6月検閲終了、5号が3月発行で9月検閲終了、7月までは事前検閲期間ですから、これらの号は実質的に半年間の発売禁止と言えると思います。GHQによる検閲は秘匿検閲ですから発禁処分を受けていた事実を公開すると更に厳しい厳罰を受けますので、事実を公開出来なかったものと思われます。次の号を8号ではなく9号とすることで8号が存在しない事が精一杯の表現なのかもしれません。しかし、これだけで8号が存在する可能性を否定する事は出来ません、発売されていた場合、下の画像にある 臨時増刊 妖怪変化特集号 になるかと思われ、事情により少し遅れて登場と記載されているのは検閲に時間が掛かっていた事を暗に示しているかと。
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昭和23年(1948)7月 事前検閲の終了
 GHQによる直接の事前検閲が終了し、以後、自主的な検閲が求められ、事後検閲に切り替わります。違反した場合は発行停止とする事でメディア業界に対する自己検閲を監督しています。実際に奇譚クラブはこの時期は半年ほど発行を停止していますので発行停止処分(どこにも発行停止処分を受けたとは書かれていませんが、発行停止処分を受けていた事実を公開すると更に厳しい厳罰を受ける為、事実を公開出来なかった)を受けていたものと思われます。

昭和23年(1948)10月 通刊第9号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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概ね半年程の発行停止処分を受けて復刊しています。このグラビアは白人ではなくインディアンではないかと思いますが連合軍側であるアメリカに居たインディアン女性の上半身裸であれば吉田氏のチャレンジャーぶりがうかがわれますね。プレスコードでは連合軍側のポルノ公開は禁止でしたが、ネイティブインディアンは上半身裸も生活スタイルの一つとして普段の生活スタイルを描写したものをポルノとは言えないとして検閲を逃れたのかもしれません。しかし首飾りなのか、それとも鎖なのか?鎖であれば昔の奴隷(本当の奴隷)を撮影したものかもしれません。

昭和24年(1949)1月 通刊第10号裏表紙の裏(第三表紙)
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前年10月に再度発行停止処分を受けたのかもしれません。2ヵ月休んで第10号を発行していますが、その影響からか、この号にはグラビアが無く、第9号の巻末に記載されていた次号予告とは全く異なる内容となっています。

昭和24年(1949)1月 別冊裏表紙の裏(第三表紙)
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この号はGordon W. Prange Collection (University of Maryland)には保管されていませんでしたので検閲を逃れているのかもしれません。世界歓楽街めぐりと題して禁止されているはずの連合軍側のポルノに言及していますので、普段とは異なるルート、具体的には、既存の読者 = 半年購読会員向けに直接販売をしていた可能性があります。他の販売ルートとしては、吉田氏が古本屋巡りをして、古本として検閲を回避し販売していたという証言があり、闇市での街頭販売などもあった様です。

昭和24年(1949)3月 通刊第12号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 ここまでくると、もう何がしかの反骨精神を感じますね。この号も上記の別冊同様に検閲資料には残されていない為、半年購読会員向けの直接販売や、古本屋での販売、闇市での街頭販売などであった可能性が高いと思われます。しかし出版社も知らない所で直接郵便物に対してもGHQにより検閲が行われていた為に、この号は摘発され、おそらく再度の発行停止処分を受けていると思われ7月まで本誌を休刊している様です。この年の3月~6月までの間に発行された奇譚クラブ本誌が有りましたら連絡を頂けますと幸いです。この3~6月の間は下記の4月別冊が発見されているのみです。

昭和24年(1949)4月 別冊裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 この号の特徴は、白人と日本人を並べて掲載している事だと思いますが、白人は背中だけ、日本人は乳房も写っているという違いがあります。この号も上記同様に検閲資料には無い為、半年購読会員向けの直接販売のみだった可能性が高いと思われますが、それでもこの様な配慮をして慎重に対処している様に思われます。

昭和24年(1949)7月 通刊番号不明裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 この号は、通巻番号の記載が無く、また3月~6月までに発行された本誌は検閲資料も含めどこを探しても見付からない為、この年の前半の出版状況は謎です。謎が故に発行停止処分を受けていた可能性が高く、半年購読者に対する直接販売のみであった可能性が高そうです。
 グラビアも、白人ヌードではありますが背中のみですから検閲に屈してしまっている様です。
 奥付頁に記載が有ります通り1月と4月の別冊は直接販売している様です。

昭和24年(1949)9月 通刊番号不明裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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前号が3巻7号、この号が3巻8号ですから一ヵ月休刊している様です。もしかしたら終戦記念日と何か関係しているかもしれませんね。この号も白人ヌードですが背中です。

昭和24年(1949)10月 事後検閲の終了
 GHQによる直接の検閲が終了しますが、プレスコードの効力は昭和27年(1952)4月まで有効とされており、メディア業界への自主検閲の本格的な定着(パノプティコン効果)が始まります。
 Gordon W. Prange Collection (University of Maryland)には、ここまでの検閲で検閲官による書き込みなどが記載された新聞や雑誌が保管されており、奇譚クラブも1949年7月(第3巻7号)まで保管されている事を私(龍)自身の手で確認してきました。但し、同年2月~6月つまり第3巻2号~第3巻6号までは抜けていた為、この期間の事後検閲は無作為抽出によって行われていた可能性が有ります。

昭和25年(1950)x月 通巻21号 肉體と記録特集
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上の画像は同年1月号に肉體と記録特集として掲載された予告ですが、赤部分がSCAPIN-33(Supreme Command for Allied Powers Instruction Note No.33、俗にプレスコードと言われる物)に抵触する為、発禁処分(発禁に成った事実を公言禁止された発禁処分)に成ったものと思われます。吉田氏が前年10月の事後検閲終了を検閲そのものの終了だと誤解した(わざと誤解させて検挙し、自己検閲の強化を図った)のかもしれません。これにより約半年間の発行停止処分となったものと思われます。
 ソ聯引揚血涙記「女俘虜の生態」衣笠カオル
 私は米軍のスパイだった 草薙久人

昭和25年(1950)5月 興安嶺 敗走関東軍その後の実相
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編集・印刷:吉田稔(奇譚クラブの編集長)
発行人:藤井喜一郎(近畿図書社長)
発行所:曙書房(奇譚クラブの出版社)
発売元:近畿図書(株)
表紙や出版形態が当号のみ異端で、表紙のどこにも奇譚クラブとは書かれていませんが、奥付に「奇譚クラブ 別刊」と明記されています。
近畿図書が発行人と販売元を代行している事から上記の通刊21号が原因で発禁と半年の発行停止処分を受けていた事を裏付けている(その回避策として近畿図書に販売を代行してもらった)と考える事が出来ると思います。

昭和25年(1950)10月 通刊24号裏表紙(第四表紙)のグラビア
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検閲に屈する事を良しとしなかった為か、反抗精神の為か、事後検閲の終了以降、白人ヌードを再開しています。
こんどは裏面ではなく表面・・・と言っても裏表紙ですが・・・に白人のヌードを再掲載しています。但し芸術作品っぽい構図で検閲を逃れようとしている事が伺われます。ポルノではなく、崇拝対象として芸術的に美化していれば良いとされたのかもしれませんが・・・
下のグラビアは同号の日本人ヌードですが芸術作品っぽい印象が全くありません。神社を背景に合成しているのも特徴です・・・と書いても判らないかもしれませんので詳しく説明しますと、キリスト教圏で教会とポルノを合成した写真は恐らくタブーですからGHQ検閲官は絶対に許さないと思うのですが、神社とポルノはOKであるばかりか「裸詣りのぞ記」と題して4ページに渡って神社とポルノが合成されている事に意図的なものさえ感じます。
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この様に日本人ヌードと白人ヌードは明確に表現方法や構図が異なっています。

昭和26年(1951)2月 通刊27号表紙の裏(第二表紙)のグラビア
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この号では巻頭見開き全面を使った白人ヌードです。しかし構図が面白いですね。
下は同号に掲載されている日本人ヌードですが、やはり日本人ヌードは芸術作品というより夜の繁華街を連想させる構図に成っています。
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この様に先の号と同様で日本人ヌードと白人ヌードは明確に表現方法や構図が異なっています。
しかしながら、これ以降はGHQの検閲が終了するまで私(龍)が知る限り白人ヌードが見当たらず、その代わりに存在しないページ(ページ番号が跳んでいる)が多数存在する事から、検閲によって白人ヌードが多数削除されていたものと思われます。
戦前に憲兵が行っていた検閲とは異なり、GHQは検閲されている事を読者に悟られないように削除する様に命令していますので、注意深くページ番号が振られていないページを見付けるなどして探さないと検閲の痕跡が判明しません。

昭和27年(1952)4月、GHQによる検閲終了
サンフランシスコ条約の発効により日本が主権の一部を回復したことになります、これによりGHQ検閲が表面的には終了しました。
通刊6号で摘発された件の裁判は、サンフランシスコ条約発効直前の4月1日(つまり、エイプリールフール)にGHQ占領下で有罪確定しています。

昭和27年(1952)5・6月合併号 通刊44号巻頭グラビア
※この号はSM専門誌として変容していった最初の号として読者から認知されている号です。
KK5206P14.jpgGHQによる検閲終了の翌月合併号で白人のヌードが復活しています。
白人ヌードであっても芸術を装った体裁ではなくなっている点が大きな特徴ですが、多くの大衆はそれに気付いていないのではないかと思われます。編集側の視点で考えてみますとGHQの抑圧から開放された反動として意図的なものさえ感じてしまいます。
写真右上に記載されている白耳義とはベルギーの事で、連合軍側の性風俗を紹介している事に成ります。

これ以前の号(昭和26年6月から毎号)では多数のページが抜け落ち(切り抜きなどでなく製本体としてページ抜け)ていましたが、これ以降の号でページ番号が跳んでいるのは1冊2ページのみ(昭和28年(1953)2月号)で、これ以降は検閲による削除は実際に行われていない様です。昭和28年(1953)2月号に付いては、どの様な理由で1枚2ページ削除されたのか不明ですが単なる手違いかもしれません。

昭和31年(1956)12月 通刊90号家畜人ヤプー』連載開始
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GHQによる検閲が終了している為、白人を拘束・緊縛している写真を掲載しても削除されず、摘発もされていません。
しかし、対照的に、この号から掲載が始まったマゾ作品の『家畜人ヤプー』を簡単に説明すると「日本人と婚約したドイツ人が、英国人と出会って感化され白人=神として君臨し日本人を国家まるごと家畜にして日本列島が家畜養殖場に成る物語」ですから、GHQによる検閲とプロパガンダ=白人崇拝誘導が沼正三に与えた影響は明白で、一定の成果がここに見て取れるでしょう。知識人であった方が洗脳され易い事はオーム事件などからも容易に判ります。学習と洗脳は非常に似た行為ですから、学習が得意な人ほど洗脳され易いのです(つまり実社会より勉強の方が得意な人=教員・教授や裁判官・検事などは最も洗脳対象に成り易い人々という事に成ります)。と同時に沼正三自身はそれを知っていて敢えてマゾとして受け入れていた様にも感じられます。



検閲より視点を一段高くしてGHQが行った事を簡単にまとめると、

1:体制批判の自由化と、連合軍批判の禁止
2:政治犯の即時釈放と、極東軍事裁判
3:表現・思想の自由化と、共産主義思想の弾圧および白人崇拝誘導

が有ります。

連合軍とは主に英国・ロシア・米国・中華(中華民国)ですから必ずしも資本主義/民主主義とは限りません
占領前にはロシアや中華を含めた4分割の統治案であった事からも、ドイツの様に東西分裂による思想の両極化・対立構造の構築などが前提にありました。

一般的には、日本は分割されなかった・・・として認知され、皆さんも、その様に思われているでしょう。その様に思想誘導されている為に気付かない人々が大多数ですが、しかし日本(大日本帝国)は実際に4分割されました。連合軍(現在の国連。国連憲章の敵国条項には未だに日本が敵国指定されたまま残されている為、敵国である日本は常任理事国になる事が出来ません)による分割統治が行われています。4分割とは、台湾、北朝鮮、韓国、内地の4分割です。北方4島を含めると5分割と言えるかもしれません。分割統治の基本的な手法として、分割した国どうしが互いに争う火種を構築しておく事で宗主国(つまり連合軍=国連)に対する反逆の力を徹底的に削ぎ落とす事にあり、実際、その様になっています。4分割された領土のうち唯一大使館が有る韓国ソウル日本大使館前には慰安婦像が設置され敵対構造を温存する事に大いに貢献していますし、竹島はGHQ占領当時の米軍が爆撃演習地に指定していた為、日本政府は立ち入りを禁止されていましたが、その時期に韓国軍により不法占拠された事になっています。しかし、韓国軍の統帥権は当時も今も公式に米軍が握っています。尖閣諸島もまた米国が沖縄を日本に返還する直前のタイミングに合わせる様に連合軍が海底を調査した事にして油田があるらしいと周辺国に宣伝し(しかし米国は尖閣を曖昧にしたまま沖縄を日本に返還)、その為、台湾と日本が尖閣の領有権を争う火種になりましたし、中国(日本の中国地方ではなく支那の事)とも争う火種になりました。北朝鮮は韓国との軍事境界線で常に対立構造を温存する仕組みが出来上がっています。

こうしてGHQは占領期間中に反目の火種を計画的に構築し、日本の4分割統治を開始し現在に至ります。つまり、今現在なんとなくでも兼韓である人々は70年前の計画に乗せられてしまっている人々です。70年前、朝鮮半島や台湾は日本でした。それを分割し、互いに互いが嫌いになる様に計画したのは当時のGHQであり連合軍であり、今の国連、日本は未だに国連による分割統治下にある国連憲章で指定された敵国であり、従って日本は国連の常任理事国には成れないのです。

一方、内地における戦後は、体制や天皇に付いては何を言っても良く自由な発言が出来る様に成りましたが、逆に連合軍に付いての発言は厳しく統制され徹底した検閲によって自由が奪われました。あらゆる出版物・論文・放送・郵便物・電話などが検閲の対象となり連合軍に不利な発言は徹底的に削除され、かつ、連合国を崇める様に誘導するプロパガンダに活用されていました。その影響は未だにメディアに残っています。例えば、日本国内のメディアは大英帝国によるアジア諸国の植民地運営や黒人奴隷の過去や連合軍(主に米兵)が日本人女性に対して行なった売春や 強 姦 に付いては報道しませんが、日本の慰安○問題は頻繁に取り上げています。(伏字や不自然な文字間空白が有るのは以前明記した際にブログがシステム側に削除された為です)。つまり、連合軍批判の禁止と国内体制への批判自由化は今でも習慣として残っています。

次いで、政治犯を即時釈放した事で、戦前・戦中に反体制の思想を持って抑圧されてきた人々が開放され自由に発言する様に成り、逆に、戦前・戦中に体制側の思想を持っていた人々は戦犯として事後法により超法規的(つまり非合法)に裁かれ、言論を封じられ、これらの連合軍による非合法活動はサンフランシスコ講和条約の条文で事後に強制されました。これらの行為により国内で思想を先導する人々が真逆の思想を持った人々にすり替えられています。

この様に、政治犯の釈放なども影響して共産主義思想が広がり、共産党の議席数が増えて行きました。言論や思想は自由化されているハズですが、冷戦構造への脅威から共産主義に対する徹底的な排除が始まり共産主義思想は公職追放の対象に成りました。私は若干右寄りで共産党員ではありませんが、思想の自由をうたいながら同時に思想弾圧を行う事の矛盾には納得出来ません。思想が自由で、自由な発言が許されるのであれば、戦前の体制を称賛する発言や、共産主義を称賛する発言などが、マスコミで取り上げられても良いはずですが、これらの発言をする人々は現在でもマスコミから弾かれてしまう体制になっています。

この様に、戦前・戦中とは真逆の検閲が実施され、かつ、検閲している事を非公開にする事で表向きは言論の自由と称して国民を騙し、検閲方針も極秘とした為に、多くの日本人は未だにGHQがしていた検閲の実態を知らず、そこで行なわれていた多種多様のプロパガンダが真実であり国民の本来の意思であると思い込み、その思い込みや、自身が施された思想誘導に全く気付いていません。

これらの影響で後に学生運動などが起きて共産主義や社会主義的な思想がもてはやされ、今でも日教組はこの影響を色濃く残し日々子供達への教育という名のプロパガンダが継続され続けています。

逆に、皇室の歴史として朝鮮とのゆかりを語ると、なぜか偽右翼(一般には右翼と呼ばれる人々)は猛反発します。
朝鮮や台湾を含むアジアの国々が仲良く団結して大陸や東南アジアを植民地から解放しようと頑張ったのが大東亜共栄圏ですと言っても、なぜか偽右翼の人々は猛反発します。

この様に、連合軍が70年前に仕込んだ検閲とプロパガンダの影響は強烈で、日本4分割統治の為のプロパガンダを鵜呑みにして旧日本の国々を嫌いに成り盲信してしまっている人々が本当に大勢居ます。

---現在、書きかけです---
当時の検閲資料を元に、より詳しく調査した結果を随時追記しております。

 



表紙で時代を追う
黎明期:昭和22年(1947)~昭和23年(1948)
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極々初期の奇譚クラブは正にカストリ誌という言葉が相応しく、粗悪な紙で、まるで同人誌の様に薄く、内容的にも素人による手作り感が否めませんが、狙いは当初からエログロのエッジを目指している事が伝わってきます。最近の同人誌と比べると絵の完成度には雲泥の差が有りますが、読者を選ぶ内容の濃さでは引けをとらないと思います。しかし後に須磨利之が参加しなければ10号を待たづに廃刊となり他のカストリ誌同様に戦後の風俗雑誌として一括に忘れ去られていったであろうという雰囲気も醸し出している様に感じます。

須磨利之初期:昭和23年(1948)~昭和25年(1950)
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須磨利之が参加してからは絵の完成度が格段に向上していますが、それでも初期の頃は少し垢抜けない感じがしますね。タイトルロゴのブの濁点位置が上から下に移動していますが、ロゴデザインとしては未だ定着する前の状態で時々先祖帰りします。

須磨利之後期:昭和26年(1951)~昭和27年(1952)
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この頃からタイトルロゴが定着します。特徴的なブの初出は昭和24年2月25日発行の珍談奇聞讀物集ですが、24年の時点では奇譚の漢字が毛筆っぽいデザインで明朝風のグラフィックデザインが施されたフォントに変わるのは通刊22号 昭和25年7月 珍談と奇聞特集號 からとなり、以後、天星社時代を経て暁出版時代で休刊するまでロゴが踏襲されます。
終戦直後の焼野原時代に始まったB5版の奇譚クラブは、サンフランシスコ条約の発効(つまり表向きの占領終了と部分的主権回復)と同時に須磨利之の絵と供に4月で終了、翌月号の出版は無く、翌々月号(合併号)からA5版へと移行します。この頃には既にロゴが統一され、現代的な雑誌の体裁で完成度も更に高くなっていますが、紙質は表表紙を除いて未だ粗悪な物(目次は若干良質の紙)が利用されています。逆に言うと、この時期は表表紙のみ上質紙が利用され本体表面に糊付けされ、中身と裏表紙は仙花紙のままです。

Chéri Hérouard(La Vie Parisienne)流用:昭和27年(1952)~昭和29年(1954)
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A5版に変わり表紙と供に内容も一新、占領軍による検閲が終了した事もあり、まるで異なる雑誌の様に大きく変貌を遂げエログロの濃度が増してSM専門誌としての色を濃くしてゆきます。紙質も向上しており表表紙と裏表紙が一体と成っています。

特大号(曙書房後期、発禁直前):昭和29年(1954)~昭和30年(1955)
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天星社に鞍替えする直前の奇譚クラブは発禁前夜まで300頁を超える様な特大号を連発し、波に乗って大ブレイク中の様子が伝わってきます。この時期の奇譚クラブは若干暴走気味で目次を見るだけで満腹感があり、表紙の絵柄も野暮ったい感じがします。
出る杭は打たれると云いますが、出た杭として当局にマークされていた面もあるかもしれません。

白表紙時代:昭和30年(1955)~昭和35年(1960)
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特大号の泡が弾けてページ数と厚みが半分に成ってしまいますが値段は1.4倍に値上げしています(インフレを加味しても値上げしている)。
そのぶん濃縮された濃い内容に成っているとも云えそうで家畜人ヤプーはこの時期に登場し、カラー表紙を待たずに去ってゆきました。

白表紙時代の増刊号:昭和33年(1958)~昭和35年(1960)
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白表紙時代でも増刊号はカラー表紙でしたが、それまでのカラフルな多色刷りの表紙と異なり落ち着いた色合いの(とは言えSMを全面に出した四馬孝画が登場する)ダークカラーの表紙に成っています。

カラー表紙復活:昭和35年(1960)
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特大号で暴走し始める前のA5版当初の雰囲気に回帰しているように思われます。

別冊:昭和30年(1955)~昭和31年(1956)
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この時期は、曙書房後期の特大号路線からの教訓なのか、増分を別冊や増刊に振り分けて頁数増加ではなく号数増加で対応している様です。

四馬孝:昭和30年(1955)~昭和31年(1956)
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これ以前にも増刊号の表紙を飾る事はありましたが、この時期は立て続けに本誌の表紙を飾り、それまでの四馬孝画と異なりカラフルな多色刷りと成っています。

Chéri Hérouard再び:昭和36年(1961)~昭和37年(1962)
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再びA5版初期の雰囲気に回帰しています。
この時期、Chéri Hérouard ばかりではないのですが、どうしてもその影響が先行している様に思います。奇譚クラブと言えば、この頃のデザインが一番印象に残っています。

天星社時代後期~暁出版時代:昭和37年(1962)~昭和50年(1975)
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天星社時代の終わり頃から表紙は全て線画・モノクロで統一され、暁出版時代の奇譚クラブは終始この様な簡素な表紙で四馬孝なども含め様々なアーティストの線画・モノクロ画が表紙として採用されていました。
あまり表紙を飾らなくとも固定客に対して安定して売れていた面があるのかもしれず、表紙より中身に注力していたのかもしれません。
この様な簡素な表紙は団鬼六の花と蛇の連載開始と完全に一致している為、花と蛇におんぶに抱っこという面もありそうです。逆に言うと花と蛇の連載及び特集号にカラフルな絵の表紙は一冊もなく、連載全盛期にはグラビアさえも廃止しており、極めつけは昭和45年(1970)8月の臨時増刊、花と蛇決定版で、グラビアどころか挿絵さえも無く活字のみで832頁(1頁は20文字×28行×3段)というSM雑誌としては異例とも言える活字主体の驚異的な長編小説となっており、本誌でグラビアを廃止していた期間なども含め活字に特化していた時期とも言えそうです。
花と蛇の連載が終了してから入れ替わりにグラビアが復活し、グラビアで花と蛇の穴を埋めようとしてか?カラーグラビアなども少しづつ登場し始めますが、この頃に登場していた多数の競合するSM雑誌に対して差別化が難しかった様で数年で休刊と成ってしまいました。活字主体からビジュアル主体へと転向した事で既存の読者が離れていった面も有るかもしれませんし、団鬼六に代わるSM専門の文筆家が登場しなかったという側面もあるかもしれません。

復刊(Franz von Bayrosなど):昭和57年(1982)~昭和58年(1983)
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吉田稔から奇譚クラブの商標権を受け継いだ賀山茂の尽力によって七年越しの復刊となり、表紙は復刊記念号としていますが、目次のタイトルは創刊号となっています。雑誌コード(IBMコード)02805を吉田稔の時代から引き継いでいますので出版業界でも正式に同じ雑誌の扱いです。
前々回のブログ記事でFranz von Bayros の絵からSM的なものを集めてみましたが、まさか復刊号の表紙がそうだったとは今回の記事を書くまで気付きませんでした。いや気付いたのかもしれませんが記憶が曖昧です。

平成版:平成9年(1997)~平成10年(1998)
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創刊号から50周年にあたる平成9年(1997)11月(創刊は1947/11)に新装刊として出版されました。雑誌コードは別物です。
前年にミュシャ展が開かれるなど、この頃の国内では Alfons Mucha の絵が流行し、その影響を受けている様に思います。この頃からアールヌーボー的なものが国内で流行しアニメやコーヒー缶など色々な場面で目にしていた様に思います。
内容的にはSMも扱う風俗雑誌として熟女秘宝館の増刊号として発行され、昭和40年代前半の奇譚クラブに掲載されていた記事やモノクロ写真を数点ほど再掲載しています。