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龍之巣
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奇譚クラブの原点を探る
 今回の記事は奇譚クラブの原点を探ってみようと思います。

 先日、昭和36年(1961)2月号を読んでいましたら250ページの編集後記に『グロテスク』の雑誌名が登場しておりましたが、原点を探る為の通過点として、まず最初に戦前のエログロナンセンスの波に乗って昭和三年に創刊された『グロテスク』というアングラ雑誌と『奇譚クラブ』を比較してみます。

雑誌『グロテスク』との比較


--表紙比較--

 下記の画像から判る様に雑誌『グロテスク』と『奇譚クラブ』創刊号の表紙が似ている事(特にの絵)が挙げられます。

左 奇譚クラブ創刊号表紙 - 昭和二十二年(1947) 十一月
右 グロテスク 第二巻 第二号 - 昭和四年(1929) 二月
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龍の絵比較(クリックして拡大すると良く判ります)
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 耳の形、髭の垂れ下がり、背鰭の形、鱗の付き方、爪の形と本数、尻尾の形、どう考えてもグロテスクの表紙を見ながら描いたとしか思えないデザインです。但し、グロテスクの龍も何かを手本としている可能性が有り、同じ龍の絵を手本としている可能性も否定出来ません。

 戦前のグロテスクはカラフルですが、終戦直後の物資が不足していた時代に創刊された奇譚クラブが2色刷りに成っているのは時代背景を考慮に入れるとやむおえない当然の結果ではないかと思います。

--掲載内容比較--

奇譚クラブ 創刊号 目次、奥付
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グロテスク第二巻 第二号目次、奥付
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類似カテゴリ:
 刑罰:グロテスクでは世界残虐刑罰史、奇譚クラブでは第3号で江戸残虐拷問と刑罰など。
 人喰い:グロテスクが口絵で人喰い娘を描き、奇譚クラブでは創刊号で人肉の味と題した記事など。
 トランスジェンダー:グロテスクで変生男子之説として性転換の記事、奇譚クラブでは第2号で男妾、第3号で男娼。
 海外風俗:グロテスクではカーマスートラやデカメロンを紹介、奇譚クラブでは第3号で海外風俗めぐり。

著者のペンネーム:
 奇譚クラブで活躍した畔亭数久(クロテイカズヒサ、畦亭数久、数久操)は“くろてぃすく”又は“ぐろてすく”とも読め、またその様に読み仮名が付けられている事も有る様です(但し、だからといって雑誌『グロテスク』から名前をとったとは限りませんが)。


--出版形態と発行人の比較--

 雑誌『グロテスク』を発行していた梅原北明という人物は、出版法違反(風俗壊乱罪)などで昭和二年に罰金刑が確定し前科持ちに成り、併せて発禁処分を度々受けていますが発行所をグロテスク社、文藝市場社、談奇館書局という様に変えてアングラ雑誌を昭和八年まで発行を続けています(昭和八年からは時代背景などもあり、女学校の英語教師に成っている)。

 雑誌『奇譚クラブ』を発行していた吉田稔も同様にわいせつ物頒布罪で昭和27年に有罪が確定し罰金刑を受けて前科持ちに成り、併せて発禁処分を度々受けていますが発行所を曙書房、天星社、暁出版(大阪)というように変えて発行を続けています。

以上の様に、吉田稔は梅原北明の、ある種の模倣犯であったのではないか?と思えてきました。

しかし梅原北明の様な人物が女学校の教師に成るというのも、もし女学校の関係者周辺がその正体を知っていれば物議を醸したでしょうね・・・

雑誌『エロエロ草紙』との比較
※発禁本ですから直接見て真似るのは困難だったかもしれません。


昭和5年、上記の『グロテスク』と同じ時代、梅原北明と並んでエログロナンセンスの代表格とされる酒井潔が刊行しようとして発禁処分となった『エロエロ草紙』なる雑誌が最近密かなブームと成り復刻版が今年の6月に出版されました

ざっと見て頂けると判りますが、奇譚クラブが La Vie Parisienne の絵を多用したのと同様に La Vie Parisienne で活躍した画家の絵(又は模写)が多数有ります。

例1:
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この絵はエロエロ草紙18ページに掲載されている物ですが、奇譚クラブで活躍した畔亭数久に画風が酷似しています。この絵を見た瞬間、私(龍)は畔亭数久の絵だと直感したのですが、残念ながら酒井潔は昭和27年没である為、昭和29年頃から活躍し始めた畔亭数久とは別人であろうと思われます。何者かによるCheri Herouard作品の模写ではないかと思いますが、作者が記載されておりません。

例2:
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左は La Vie Parisienne に掲載されたオリジナルのGeorge Léonnec作と思われる絵、右はエロエロ草紙33ページに掲載された絵。良く見ると細部が微妙に異なりますので、酒井潔(又は他の誰か)が La Vie Parisienne 誌を見て模写したものと思われます。

例3:
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この絵は、左下に Léo Fontan のサインが有りますが、この人物もやはり La Vie Parisienne 誌で活躍した画家の一人です。エロエロ草紙の49ページに掲載されています。

法体系として著作権などが整備されたのは、かなり後に成ってからですから、エロエロ草紙が発禁とされた当時は著作権に付いては野放しだったのかもしれません。しかし戦後はサンフランシスコ条約に基づき連合国(つまりフランスも含む)の著作物に対しては戦前の物も含めて保護された様ですから、奇譚クラブに対しても何らかのアクションが有ったかもしれません。

--書き掛け--
 
結論


※書き掛けでありながら、結論を書いてみます。追記は結論に対する補強に成ってしまう可能性大ですが・・・

創刊当時の奇譚クラブは、二次大戦で途絶えていた戦前のエログロナンセンスの流れを踏襲・復活させ、特にエログロに特化したものを作ろうとしていたのではないかと思います。当時は未だSMという言葉が無くジャンルとして確立していませんでしたが、志向としてはアブノーマル・変態・SMといった物の先端を当初から目指していたと言えると思います。GHQによる検閲に屈するまでは・・・
初期の奇譚クラブに触れて
ご縁が有りまして通刊第7号(昭和23年5月号)の奇譚クラブが今、私の手元に有ります。
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目次
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左から順に、スキャン直後の生データ -> デジタル補修 -> 退色・色調復元
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半世紀を越えて人の生涯に相当する時を経た雑誌のスキャニングを仰せ付かりました。

既に表紙及び目次はスキャン済みですが、カストリ誌(カストリ紙)と云われるに相応しく、少しでも折り曲げようとすればボロボロと灰の様に粉々に崩れてしまいそうな冊子(表紙を含め36頁、9枚の紙を中綴じしたもの)を目の前にして、如何にしてページを捲り、スキャンするべきかを考えています。

このまま手を付けづに保存すれば、いづれにしろ放置してもボロボロに朽ちてスキャンすら出来なくなってしまうでしょうから、何とかして現状を維持しつつ綺麗にスキャンしたいと思っています。

候補として、

1:デジカメで撮影
2:ScanSnap SV600
3:Plustek OpticBook 4800

を考えてみました。

デジカメ撮影は意外に難しく、カメラの三脚と本を支え持つ譜面立てが欲しいところです。しかし、どうしても画像が歪む為、最終手段として考えています。

ScanSnap SV600 はデジカメ撮影と同様に離れた位置から本を撮影し、それをソフト的に平坦に加工するものですが、本を180度開いてしまわないと撮影出来ない難点が有り、かつ、それでも歪みは少なからず残ってしまう様です。

Plustek OpticBook 4800 は従来の普通のスキャナと本質的には同じものですが、スキャナの端枠が2mmと非常に薄い為、本を90度まで開けば歪み無く高精細に綴じ代の奥までスキャン出来る利点が有ります。
雑誌に見るサドとマゾ
 奇譚クラブの読者層は4:1の割合でサド:マゾだった様です(出典:雑誌で読む戦後史 ISBN4-10-600291-4 但しこの本には間違いが散見され真実かどうかは疑問 -> 具体例:圧迫の中で昭和30年、さすがの吉田も82号をもって休刊したが、マニアの熱望を拒みきれず、表紙を1色に自粛して30年10月号より復刊した -> 解説:実際は30年5月に80号で3度目の発禁処分を受け休刊、30年10月に81号として白黒1色表紙にて復刊するも翌11月の82号をもって再度休刊、31年4月に83号として再び復刊し以後ほぼ定期的に月刊販売しているという2段階のステップを経て復刊しており、休刊した号と一色刷りで復刊した号の記載が間違っている。他にも間違いが多々有るが、重要な点で言えばマゾ記事の登場は沼の登場と連動してるかの様に書いているが実態はA5版に成って早々にマゾ特集が組まれている等)。

 奇譚クラブの特徴として、サディスト向けの記事と、マゾヒスト向けの記事が両方掲載されているのみならず、男娼や男妾の様な男性同士の関係に付いて等、多種多様な掲載が有り、昭和変態文化全体の基礎と成っている点が挙げられるでしょう。

 後に登場した変態雑誌は、『サブ』の様な男同士に的を絞った物や、『Mistress』の様にマゾヒストに的を絞った物など、分野ごとに細分化されてゆきますが、これにより自分の見たい分野の情報だけを見る様に成り、逆に、あまり見たくない分野の情報が閉ざされてゆく効果も・・・テレビが専門チャンネル・・・

 ---書きかけ---
La Vie Parisienne と 奇譚クラブ の表紙比較
ここに掲載したのは、ほんの一部です。
主に Chéri Hérouard を中心とした複数の画家による分担作業で(構成、色塗り、背景など、現代の漫画家の様に作業分担をして)描かれていた様です。

--曙書房時代--
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この表紙は、画像をかなり加工してある様です。模写かもしれません。

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--天星社時代--
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帽子の色が違います。

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極めつけはコレです。
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“奇譚クラブ”の背景にLa Vie Parisienneの文字がハッキリ読み取れます。

天星社時代の後半以降は四馬孝画などが使われる事が多くなってきますが、私は、このLa Vie Parisienneの表紙と同じ絵を使っていた時期の奇譚クラブのデザインが好きです。
この時代は目次にも気の効いた(というか手の込んだ)挿絵が描かれている物が多く、全体としてのバランスも良くて気に入っています。
著作権的には問題が有りそうではありますが・・・
白表紙時代の謎
 奇譚クラブを有名にし、かつ根強い人気を定着させた一つの出来事として、度重なる当局からの発禁処分にも関らず、出版社を変えるなどして発行し続けた勢い、活力、或いは執念の様なものに対する共感・賛同・賞賛の気持ちなどが有ったのではないでしょうか?

 発禁処分を受けた曙書房最後の奇譚クラブ
 昭和30年(1955)5月号(通刊第80号)『特大号』
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その最たるものの一つとして、白表紙時代が挙げられます。

 この白表紙時代の本誌は、奥付け右側に記載されております通り、基本的に書店での店頭売りをしておりません。その為に客引きの為の目立った表紙カラー印刷(当時は印刷コストが馬鹿にならなかった)を廃し白表紙にしていたと思われます。この点に於いては限定版(通販限定の特集号)とも共通するポリシーが有る様に思われます。

厳密には、発禁処分を受けて天星社に鞍替えして最初の号

 昭和30年(1955)10月号:復刊第1号(通刊第81号)奥付
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  から
 昭和34年(1959)9月号:復刊第48号奥付
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までの4年間は一切の店頭販売を行わず』(と奥付け右側に書いてあります)。

 昭和34年(1959)10月号:復刊第49号奥付
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  から
 昭和35年(1960)5月号:復刊第60号奥付
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までの半年間は通販主体で白表紙のまま書店での店頭販売を徐々に再開し、翌月、

 昭和35年(1960)6月号:復刊第61号(通刊第141号)奥付
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からは表紙をカラーに戻して通常の書店での店頭販売に戻している様です。

では、白表紙時代どうやって販売していたのでしょうか?

と言うのが今回の御題です。

 発禁処分を受けた際に、天星社に鞍替え(というか奇譚クラブを再出版する為に会社を新しく興している)した後は、社名も住所も異なりますから、今迄書店で購入していた方々は出版社への連絡手段さえ判らない状況であったのではないでしょうか?(但し白表紙の復刊第一号奥付左側に、曙書房への郵便物及び送金は全て天星社に届く旨記載が御座いますので、発禁や天星社への鞍替えを知らずに注文書を郵送しても購入出来たと思われます)

その中で想定される販売ルートとして、
1:既存の顧客に通信販売していた
2:時々臨時増刊号を店頭販売する事で販促につなげていた
3:口コミ


 の3つのルートが考えられますが、臨時増刊号の店頭販売は昭和33年(1958)1月まで行われていませんので、少なくとも白表紙時代の最初の2年間は既存顧客と口コミだけで販売していた可能性が有ります。逆に昭和33年(1958)1月以降は臨時増刊号を連発していますので、臨時増刊号(カラー表紙で店頭売りされていた)による本誌販促が期待以上の効果をあげていた可能性が有ります。

 他のルートとして想定されるのは一部の書店を通じての注文販売で、それまで店頭販売にて購読していた読者が、書店で奇譚クラブ本誌に付いての問い合わせをした際に、店頭には並べないが注文販売という形で店頭での受け渡しが行われた可能性があります。その根拠は雑誌コード(IBMナンバー)が復刊第3号から復活している事で、これにより出版社や住所が変わっても、雑誌の流通ルートを使って書店から注文する事が可能になっています。逆に言うと、出版社の社名と住所が変わったにも関らず同一の雑誌コード(IBMナンバー)を継承出来たのは出版業界での権利関係の引継ぎ問題や取次ぎ行為自体が復刊第3号の時点で解決していた事を意味し、かつ、雑誌の流通ルートを使う意図が天星社側にも有った事を意味していると思われます。もしそうでなければ雑誌コード(IBMナンバー)を復活して刻印する手間隙を掛ける意味がありません(無断で刻印していた可能性も有るのかもしれませんが、それをしてしまうと書店からIBMナンバーによる発注が有った際に問題が頻発して直ぐに発覚している筈です・・・)。
 しかし発行禁止処分を受けた(つまり、事実上の廃刊に追い込まれた)事の対策として別会社から同名の(しかし別の)雑誌として出版しているならまだしも、同じ雑誌として同一IBMナンバーで再出版する事が出来た事は異例であり、発行禁止を覆したとも言える訳ですから、その政治力と執念に関心するばかりです。
 ちなみに、奇譚クラブで雑誌コード(IBMナンバー)を最初に刻印して出版したのは発禁の僅か2号前に当たる昭和30年(1955)04月 通刊第79号ですから、示し合わせたかの様な予定調和の様なものを感じます。

 もう一つ、正規ルートとは言い難く当局の発禁処分を回避する為の方策として(全体に占める割合として、どの程度か判りませんが)天星社から古書店に新古本としての扱いで直接卸していたのではないか?とも云われております。但し、もしそれを主な販売ルートとしていたのであれば白表紙ではなくカラー表紙にしていたのではないか?という疑問が湧きますし、そもそも奥付には書店での販売は一切しませんとうたっている以上、その天星社が自ら(古)書店に卸すのか?という疑問もあります。昭和34年(1959)10月号以降の白表紙は書店に卸していた形跡が有りますので、その頃からは、そういった販売形態もとられていたのかもしれません。(その辺りをご存知の内部関係者の証言が有れば、もう少しハッキリしてくると思いますが・・・)

 一度、白表紙を入手すれば、そこから天星社の住所を手繰ってバックナンバーや予約注文をする事が出来ます。

 その為に振込用紙が白表紙時代に(昭和33年(1958)5月号で中止されるまで)は本誌に添付されていました。

 いづれにしろ、この白表紙時代4年半を乗り切って発行し続けた事が不思議なくらいに強力な意思(と伴に別の何か?)を感じます。凄いですね。