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龍之巣
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初期の奇譚クラブに対して行われた検閲の実態
--前提知識--

 奇譚クラブが発売されたのは戦後ですから、戦前の大日本帝国の憲兵や内務省や特高などが行っていた検閲とは異なり、連合国軍(GHQ)主導で奇譚クラブに対する検閲が行われています。表向きは検閲を撤廃した事にして『言論の自由』というキャッチコピーに騙された大衆に対して実際には戦前よりも強烈な言論統制と思想誘導が短期間のうちに連合国軍(GHQ)によって実施されています。

 郵便物に対する検閲に付いてはこの様な情報もあります。

昭和19年(1944)11月12日 米統合参謀本部命令書 JCS873/3
 GHQによる検閲とプロパガンダは、この命令書を根拠として実施された様です。

昭和20年(1945)8月15日 ポツダム宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)受諾、9月2日調印
 ポツダム宣言の10条には「言論の自由」が明記されている為、表向き検閲は禁止されます。

昭和20年(1945)9月19日プレスコード発効
 Supreme Command for Allied Powers Instruction Note 33 / Civil Intelligence Section : PRESS CODE FOR JAPAN.
 出版・放送(放送は3日後に発効されたSCAPIN43 RADIO CODE FOR JAPAN)・映画・論文などのあらゆるメディアに対してGHQによる戦前よりも厳しく、かつ、秘匿された言論統制が始まります。戦前の内務省による検閲、憲兵や特高による検閲では検閲している事を公開していましたが、戦後のGHQによる検閲は国民一般には非公開とされ言論の自由を喧伝し検閲を撤廃した様に偽装しながら検閲を行ない、検閲の結果として削除や改訂されたものは痕跡を残さない様に命令されていました。例えば新聞の場合、中山研一氏の『現代社会と治安法』(岩波書店 1970)によりますとプレスコードが発効された9月から翌年1月までの5ヶ月間で検閲により掲載を禁じられた記事が670もあった様ですが、これらは全て無かった事にされ当時の人々が目にする機会はありませんでした。奇譚クラブは、この様な時代背景の中で創刊されました。

 当時、戦前の教科書はGHQが指定した個所を教諭指導の下で生徒自らの手により黒塗りする指導が為され、戦前の出版物は大量に焚書(焼却)処分され、大手新聞社と放送局にはGHQの検閲官が常駐して事前検閲とプロパガンダが始まり、国内の全てのメディアに連合軍(主にアメリカ)を賛美・賞賛させ、逆に枢軸国(主に日本とドイツ)の旧体制を酷評・叱責させる放送番組・記事・映像作品・論文などを次々と発表(捏造する事も多々有った)させる事で大衆を思想誘導してゆきました。当初は放送局や新聞社・雑誌社・論文を書いた学者などに『事実と異なる嘘をつくな』といった内容の苦情が殺到しますがGHQ検閲官により全て黙殺する様に命令されていた為、読者や視聴者の怒りは全てのれんに腕押し常態となり、こういった反対意見は全く無いかの様に装い、かつ、極少数の賛成意見のみが読者や視聴者の意見として大々的にメディアを使って紹介されていました。

 この状態を数年続ければ大衆の思想は簡単に変えられてしまいます。

 しかし、一種の国際条約に相当するポツダム宣言の10条には「言論の自由」が明記されていますので、つまり条約に調印した17日後に、それを自ら破って検閲を開始、犯罪者が証拠を隠すのと同様、GHQは確信犯として裏で検閲を秘匿しながら、表でプロパガンダを言論の自由に乗せて大々的に喧伝していた事に成ります。

 この様にして各種メディアに対して検閲が行われましたが、特に雑誌に対してGHQが行った検閲の記録はGordon W. Prange Collection (University of Maryland)の地下倉庫に保管されており、奇譚クラブに付きましてもGHQ検閲官の考察を含む駄目だし資料が多数残されてる事を私(龍)自身の手で確認してまいりました。検閲を行なった当事者が資料として大学に持ち帰って保管していた物ですから信憑性が高いと言えます。しかし、この資料には検閲官(日本人の大学生が主に採用された)による検閲記載は残されていますが、それを元にGHQ側が行っていた処分内容(発禁処分や発行停止処分など)の記録は見付ける事が出来ませんでした。しかし探せば出てくる可能性は有ります。

昭和22年(1947)2月二・一ゼネスト中止命令
 戦後の連合軍内部分裂により皆さん御存知の通り資本主義勢力と共産主義勢力に別れ冷戦構造を構築してゆきますが、連合軍による日本(内地と朝鮮半島の南半分)の占領は資本主義(資本家による植民地支配主義)勢力であるアメリカ・イギリスが抑えた事により、内地は全面的に資本主義勢力の支配下に置かれ、結果、共産主義思想に対する思想弾圧が開始され、検閲にもその影響が出始めます。
 GHQは、当初、思想の自由を掲げて国内の監獄から政治犯を解放しましたが、その殆どは共産主義や社会主義の指導者達でした。つまり、戦前の政府は主に共産主義や社会主義の指導者を政治犯として検挙し投獄していたのですが、彼らが解放され、逆に戦前の指導者達が戦犯として投獄され反論や言論の自由を奪われ、当然の結果として国内(内地)では共産主義や社会主義が勢力を拡大してゆきました、しかし、GHQは解放しておきながら再度打倒すべく、検閲とプロパガンダの方針が戦前否定から赤狩りへとシフトしはじめプレスコードの運用に修正が入ります。
 つまり、これ以降の検閲とプロパガンダの方針が戦前の体制批判に加えて共産主義や社会主義廃絶の方向に軌道修正されてゆき、GHQは共産主義や社会主義勢力への対抗勢力として戦前の国内体制を部分的に復活させ、左翼からは逆コースと呼ばれる方針へと変化してゆきます。そもそも大日本帝国の帝国主義的な活動は英国や米国の資本主義(資本家による帝国主義や、資本家による植民地政策)を手本として、彼らの作った国際法に則っていた訳ですから、大日本帝国時代の体制であった方がシステム上は米英との親和性が高い事が容易に想像できると思います。

奇譚クラブ 出版と検閲の状況調査一覧
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 この一覧に掲載されていない号を御持ちでしたら、連絡を下さい


--奇譚クラブに対する検閲の実態--

昭和22年(1947)11月 創刊号~創刊第3号
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 創刊号(画像左)創刊2号(画像中)創刊3号(画像右)などは戦前のエログロ雑誌(今で言えば変態マニア専門誌)の様相ですが、この後、GHQの検閲により角が丸くなり、エログロや変態の様相は日本に主権の一部が戻る昭和27年5月まで御預けにされてしまい、それまでの間は角の取れた普通のエロ雑誌へと変貌してゆきます。
 創刊号で性器崇拝、創刊2号ではサディズムやマゾヒズムに関する記事、創刊3号には緊縛・吊るし絵なども登場しますが、創刊3号で初めて本格的な検閲が行われました。3号の検閲を担当したのはスズキ(検閲文書にはSUZUKIと記載)という日本語/英語が堪能な人物で、英文筆記体による箇条書きの概要解説を1月23日付けで残しています。3号の発行日は1月20日で、同日検閲所に到着した事を示す押印が検閲資料に残されており、かつ原稿等の製本前に検閲が行われた形跡が残されていない事から事後検閲と思われますが、この記録は事前に検閲を受けて改訂した後の再検閲である可能性を否定するものではありません。また、通常、出版物に印刷されている発行日は実際の発売日よりも1ヶ月程度後の日付ですので、この当時は実際の発売日の翌月に検閲所に現物が届いていたと思われます。
 ※ここまでは、グラビア無し

昭和23年(1948)2月 通刊第4号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 発行日から4ヶ月後の6月8日付けでGHQの下部組織である民間検閲支隊のT.MASUDAという人物によって検閲が行われPASSしています。検閲文書でのタイトルは“KIDAN CLUB”と書いてありますので「キダンクラブ」と読んでいた様です。検閲官による判定は「若い男女向けのポピュラーなフィクションマガジン」として無害認定されていますが、内容的にはエログロの要素も多少残している為、検閲官の裁量によるところが大きいと思われます。検閲記録は英文筆記体で検閲用紙2ページにビッシリと記載されています。
 2月発行(つまり発売は1月を予定していた)でありながら6月に検閲通過ですから、事前検閲期にこれをされたら半年くらい販売が停止していた事を意味します。カストリ誌が3号で潰れた直接の原因であろう事は容易に想像できると思います。

昭和23年(1948)3月 通刊第5号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 この写真はGHQの下部組織、民間検閲支隊(Civil Censorship Detachment)によりVIOL(Violation = 違反)判定を受けています。
 何の変哲も無い普通のヌード写真ですが、何が違反なのかというと白人のヌードを掲載した事が違反とされ、つまり白人を陵辱する事は許さないという事です。逆に日本人のヌードはOKでした。検閲の方針として、雑誌での性的表現を自由化するよう命じる一方で、白人ポルノや連合軍に於けるポルノについては言及するだけで削除を命じていた様です。実際、GHQ検閲の終わる昭和27年4月までは日本人女性であれば陰部や陰毛などもOKで、むしろ日本人ヌードでのこういった部位の描写はGHQ検閲の終了後に厳しくなります。但し日本人女性であっても連合軍(主に米兵)の行なった2万件にも及ぶ 強 姦 や、GHQの命令で設営された米兵相手の日本人慰安婦施設(及び慰安婦として採用された日本人女性)に言及する事は一切禁止(米兵の事を“大男”や“ボーイ”などと呼称する事で検閲を回避していた記事も有る=当時の犯罪記事で“大男”や“ボーイ”の記載は米兵の事)とされていました。
 創刊2号~4号は大賣捌所(うりさばきしょ)立誠社の記載が奥付にあり少なくとも創刊3号までは取次を介していた様ですが、創刊3号で受けた検閲の影響で立誠社から取り次ぎを拒否され、やむなく代理店を通さずに発行人の吉田氏が自分の足で書店を巡回営業しており、その為、検閲の前に何冊か出回った様です。

昭和23年(1948)4月 通刊第6号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 この号と次の号は日本語による検閲の記録が文章で残されていますが、何故か戦後の農協に関する記述でした。日本語の読めないアメリカ人宛に当て付けで無意味な文章を送ったのかもしれませんし、何かの暗号なのかもしれません。
 5号で違反の烙印を押された翌月ですから、芸術であれば(陵辱するのではなく崇拝対象として掲載すれば)違反には成らないだろうと考えたのか?(或いはその様に指導されたのか)前号同様に白人らしきモデル(日本人ではなく白人を起用した事から吉田氏の執念を感じます)の写真ですが、前号の様なヌード然とした写真ではなく、芸術作品っぽい構図になっています。が、この号は刑法175条(わいせつ物頒布等の罪)で摘発されました。摘発理由は複数あった様ですが、この摘発により裁判となり、争点は「わいせつ」か「芸術」か、という点で争われた様です。前号でGHQに目を付けられた事は明らかでしょう。後に有罪が確定し、五千円の罰金刑に成っています(当時の五千円は現代の価値にして約3~5万円)。吉田氏曰く「改訂命令のみであれば従ったが刑罰を加えられた為に法廷闘争に持ち込んだ」との事でした。思想的な面で摘発された場合は沖縄(当時の沖縄は米国の施政下にあった)での長期間の強制労働となりますが、罰金刑で済んでいる事から、芸術っぽい構図にした事が危険思想とは見なされなくなった要因の一つかもしれません。

昭和23年(1948)5月 通刊第7号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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5号、6号、と検閲に引っ掛かった為か、次の7号では、この様に検閲に屈してしまった写真で人種ばかりか性別さえも判別不能となっています。

昭和23年(1948)6月 通刊第8号
月刊誌ですから順当に行けば6月に第8号が発行されていたハズですが、第8号は発禁処分を受けた可能性が有ります。事実として7号から9号までの間の約半年間ほど発行されていませんし、4号が2月発行で6月検閲終了、5号が3月発行で9月検閲終了、7月までは事前検閲期間ですから、これらの号は実質的に半年間の発売禁止と言えると思います。GHQによる検閲は秘匿検閲ですから発禁処分を受けていた事実を公開すると更に厳しい厳罰を受けますので、事実を公開出来なかったものと思われます。次の号を8号ではなく9号とすることで8号が存在しない事が精一杯の表現なのかもしれません。しかし、これだけで8号が存在する可能性を否定する事は出来ません、発売されていた場合、下の画像にある 臨時増刊 妖怪変化特集号 になるかと思われ、事情により少し遅れて登場と記載されているのは検閲に時間が掛かっていた事を暗に示しているかと。
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昭和23年(1948)7月 事前検閲の終了
 GHQによる直接の事前検閲が終了し、以後、自主的な検閲が求められ、事後検閲に切り替わります。違反した場合は発行停止とする事でメディア業界に対する自己検閲を監督しています。実際に奇譚クラブはこの時期は半年ほど発行を停止していますので発行停止処分(どこにも発行停止処分を受けたとは書かれていませんが、発行停止処分を受けていた事実を公開すると更に厳しい厳罰を受ける為、事実を公開出来なかった)を受けていたものと思われます。

昭和23年(1948)10月 通刊第9号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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概ね半年程の発行停止処分を受けて復刊しています。このグラビアは白人ではなくインディアンではないかと思いますが連合軍側であるアメリカに居たインディアン女性の上半身裸であれば吉田氏のチャレンジャーぶりがうかがわれますね。プレスコードでは連合軍側のポルノ公開は禁止でしたが、ネイティブインディアンは上半身裸も生活スタイルの一つとして普段の生活スタイルを描写したものをポルノとは言えないとして検閲を逃れたのかもしれません。しかし首飾りなのか、それとも鎖なのか?鎖であれば昔の奴隷(本当の奴隷)を撮影したものかもしれません。

昭和24年(1949)1月 通刊第10号裏表紙の裏(第三表紙)
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前年10月に再度発行停止処分を受けたのかもしれません。2ヵ月休んで第10号を発行していますが、その影響からか、この号にはグラビアが無く、第9号の巻末に記載されていた次号予告とは全く異なる内容となっています。

昭和24年(1949)1月 別冊裏表紙の裏(第三表紙)
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この号はGordon W. Prange Collection (University of Maryland)には保管されていませんでしたので検閲を逃れているのかもしれません。世界歓楽街めぐりと題して禁止されているはずの連合軍側のポルノに言及していますので、普段とは異なるルート、具体的には、既存の読者 = 半年購読会員向けに直接販売をしていた可能性があります。他の販売ルートとしては、吉田氏が古本屋巡りをして、古本として検閲を回避し販売していたという証言があり、闇市での街頭販売などもあった様です。

昭和24年(1949)3月 通刊第12号裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 ここまでくると、もう何がしかの反骨精神を感じますね。この号も上記の別冊同様に検閲資料には残されていない為、半年購読会員向けの直接販売や、古本屋での販売、闇市での街頭販売などであった可能性が高いと思われます。しかし出版社も知らない所で直接郵便物に対してもGHQにより検閲が行われていた為に、この号は摘発され、おそらく再度の発行停止処分を受けていると思われ7月まで本誌を休刊している様です。この年の3月~6月までの間に発行された奇譚クラブ本誌が有りましたら連絡を頂けますと幸いです。この3~6月の間は下記の4月別冊が発見されているのみです。

昭和24年(1949)4月 別冊裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 この号の特徴は、白人と日本人を並べて掲載している事だと思いますが、白人は背中だけ、日本人は乳房も写っているという違いがあります。この号も上記同様に検閲資料には無い為、半年購読会員向けの直接販売のみだった可能性が高いと思われますが、それでもこの様な配慮をして慎重に対処している様に思われます。

昭和24年(1949)7月 通刊番号不明裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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 この号は、通巻番号の記載が無く、また3月~6月までに発行された本誌は検閲資料も含めどこを探しても見付からない為、この年の前半の出版状況は謎です。謎が故に発行停止処分を受けていた可能性が高く、半年購読者に対する直接販売のみであった可能性が高そうです。
 グラビアも、白人ヌードではありますが背中のみですから検閲に屈してしまっている様です。
 奥付頁に記載が有ります通り1月と4月の別冊は直接販売している様です。

昭和24年(1949)9月 通刊番号不明裏表紙の裏(第三表紙)のグラビア
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前号が3巻7号、この号が3巻8号ですから一ヵ月休刊している様です。もしかしたら終戦記念日と何か関係しているかもしれませんね。この号も白人ヌードですが背中です。

昭和24年(1949)10月 事後検閲の終了
 GHQによる直接の検閲が終了しますが、プレスコードの効力は昭和27年(1952)4月まで有効とされており、メディア業界への自主検閲の本格的な定着(パノプティコン効果)が始まります。
 Gordon W. Prange Collection (University of Maryland)には、ここまでの検閲で検閲官による書き込みなどが記載された新聞や雑誌が保管されており、奇譚クラブも1949年7月(第3巻7号)まで保管されている事を私(龍)自身の手で確認してきました。但し、同年2月~6月つまり第3巻2号~第3巻6号までは抜けていた為、この期間の事後検閲は無作為抽出によって行われていた可能性が有ります。

昭和25年(1950)x月 通巻21号 肉體と記録特集
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上の画像は同年1月号に肉體と記録特集として掲載された予告ですが、赤部分がSCAPIN-33(Supreme Command for Allied Powers Instruction Note No.33、俗にプレスコードと言われる物)に抵触する為、発禁処分(発禁に成った事実を公言禁止された発禁処分)に成ったものと思われます。吉田氏が前年10月の事後検閲終了を検閲そのものの終了だと誤解した(わざと誤解させて検挙し、自己検閲の強化を図った)のかもしれません。これにより約半年間の発行停止処分となったものと思われます。
 ソ聯引揚血涙記「女俘虜の生態」衣笠カオル
 私は米軍のスパイだった 草薙久人

昭和25年(1950)5月 興安嶺 敗走関東軍その後の実相
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編集・印刷:吉田稔(奇譚クラブの編集長)
発行人:藤井喜一郎(近畿図書社長)
発行所:曙書房(奇譚クラブの出版社)
発売元:近畿図書(株)
表紙や出版形態が当号のみ異端で、表紙のどこにも奇譚クラブとは書かれていませんが、奥付に「奇譚クラブ 別刊」と明記されています。
近畿図書が発行人と販売元を代行している事から上記の通刊21号が原因で発禁と半年の発行停止処分を受けていた事を裏付けている(その回避策として近畿図書に販売を代行してもらった)と考える事が出来ると思います。

昭和25年(1950)10月 通刊24号裏表紙(第四表紙)のグラビア
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検閲に屈する事を良しとしなかった為か、反抗精神の為か、事後検閲の終了以降、白人ヌードを再開しています。
こんどは裏面ではなく表面・・・と言っても裏表紙ですが・・・に白人のヌードを再掲載しています。但し芸術作品っぽい構図で検閲を逃れようとしている事が伺われます。ポルノではなく、崇拝対象として芸術的に美化していれば良いとされたのかもしれませんが・・・
下のグラビアは同号の日本人ヌードですが芸術作品っぽい印象が全くありません。神社を背景に合成しているのも特徴です・・・と書いても判らないかもしれませんので詳しく説明しますと、キリスト教圏で教会とポルノを合成した写真は恐らくタブーですからGHQ検閲官は絶対に許さないと思うのですが、神社とポルノはOKであるばかりか「裸詣りのぞ記」と題して4ページに渡って神社とポルノが合成されている事に意図的なものさえ感じます。
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この様に日本人ヌードと白人ヌードは明確に表現方法や構図が異なっています。

昭和26年(1951)2月 通刊27号表紙の裏(第二表紙)のグラビア
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この号では巻頭見開き全面を使った白人ヌードです。しかし構図が面白いですね。
下は同号に掲載されている日本人ヌードですが、やはり日本人ヌードは芸術作品というより夜の繁華街を連想させる構図に成っています。
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この様に先の号と同様で日本人ヌードと白人ヌードは明確に表現方法や構図が異なっています。
しかしながら、これ以降はGHQの検閲が終了するまで私(龍)が知る限り白人ヌードが見当たらず、その代わりに存在しないページ(ページ番号が跳んでいる)が多数存在する事から、検閲によって白人ヌードが多数削除されていたものと思われます。
戦前に憲兵が行っていた検閲とは異なり、GHQは検閲されている事を読者に悟られないように削除する様に命令していますので、注意深くページ番号が振られていないページを見付けるなどして探さないと検閲の痕跡が判明しません。

昭和27年(1952)4月、GHQによる検閲終了
サンフランシスコ条約の発効により日本が主権の一部を回復したことになります、これによりGHQ検閲が表面的には終了しました。
通刊6号で摘発された件の裁判は、サンフランシスコ条約発効直前の4月1日(つまり、エイプリールフール)にGHQ占領下で有罪確定しています。

昭和27年(1952)5・6月合併号 通刊44号巻頭グラビア
※この号はSM専門誌として変容していった最初の号として読者から認知されている号です。
KK5206P14.jpgGHQによる検閲終了の翌月合併号で白人のヌードが復活しています。
白人ヌードであっても芸術を装った体裁ではなくなっている点が大きな特徴ですが、多くの大衆はそれに気付いていないのではないかと思われます。編集側の視点で考えてみますとGHQの抑圧から開放された反動として意図的なものさえ感じてしまいます。
写真右上に記載されている白耳義とはベルギーの事で、連合軍側の性風俗を紹介している事に成ります。

これ以前の号(昭和26年6月から毎号)では多数のページが抜け落ち(切り抜きなどでなく製本体としてページ抜け)ていましたが、これ以降の号でページ番号が跳んでいるのは1冊2ページのみ(昭和28年(1953)2月号)で、これ以降は検閲による削除は実際に行われていない様です。昭和28年(1953)2月号に付いては、どの様な理由で1枚2ページ削除されたのか不明ですが単なる手違いかもしれません。

昭和31年(1956)12月 通刊90号家畜人ヤプー』連載開始
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GHQによる検閲が終了している為、白人を拘束・緊縛している写真を掲載しても削除されず、摘発もされていません。
しかし、対照的に、この号から掲載が始まったマゾ作品の『家畜人ヤプー』を簡単に説明すると「日本人と婚約したドイツ人が、英国人と出会って感化され白人=神として君臨し日本人を国家まるごと家畜にして日本列島が家畜養殖場に成る物語」ですから、GHQによる検閲とプロパガンダ=白人崇拝誘導が沼正三に与えた影響は明白で、一定の成果がここに見て取れるでしょう。知識人であった方が洗脳され易い事はオーム事件などからも容易に判ります。学習と洗脳は非常に似た行為ですから、学習が得意な人ほど洗脳され易いのです(つまり実社会より勉強の方が得意な人=教員・教授や裁判官・検事などは最も洗脳対象に成り易い人々という事に成ります)。と同時に沼正三自身はそれを知っていて敢えてマゾとして受け入れていた様にも感じられます。



検閲より視点を一段高くしてGHQが行った事を簡単にまとめると、

1:体制批判の自由化と、連合軍批判の禁止
2:政治犯の即時釈放と、極東軍事裁判
3:表現・思想の自由化と、共産主義思想の弾圧および白人崇拝誘導

が有ります。

連合軍とは主に英国・ロシア・米国・中華(中華民国)ですから必ずしも資本主義/民主主義とは限りません
占領前にはロシアや中華を含めた4分割の統治案であった事からも、ドイツの様に東西分裂による思想の両極化・対立構造の構築などが前提にありました。

一般的には、日本は分割されなかった・・・として認知され、皆さんも、その様に思われているでしょう。その様に思想誘導されている為に気付かない人々が大多数ですが、しかし日本(大日本帝国)は実際に4分割されました。連合軍(現在の国連。国連憲章の敵国条項には未だに日本が敵国指定されたまま残されている為、敵国である日本は常任理事国になる事が出来ません)による分割統治が行われています。4分割とは、台湾、北朝鮮、韓国、内地の4分割です。北方4島を含めると5分割と言えるかもしれません。分割統治の基本的な手法として、分割した国どうしが互いに争う火種を構築しておく事で宗主国(つまり連合軍=国連)に対する反逆の力を徹底的に削ぎ落とす事にあり、実際、その様になっています。4分割された領土のうち唯一大使館が有る韓国ソウル日本大使館前には慰安婦像が設置され敵対構造を温存する事に大いに貢献していますし、竹島はGHQ占領当時の米軍が爆撃演習地に指定していた為、日本政府は立ち入りを禁止されていましたが、その時期に韓国軍により不法占拠された事になっています。しかし、韓国軍の統帥権は当時も今も公式に米軍が握っています。尖閣諸島もまた米国が沖縄を日本に返還する直前のタイミングに合わせる様に連合軍が海底を調査した事にして油田があるらしいと周辺国に宣伝し(しかし米国は尖閣を曖昧にしたまま沖縄を日本に返還)、その為、台湾と日本が尖閣の領有権を争う火種になりましたし、中国(日本の中国地方ではなく支那の事)とも争う火種になりました。北朝鮮は韓国との軍事境界線で常に対立構造を温存する仕組みが出来上がっています。

こうしてGHQは占領期間中に反目の火種を計画的に構築し、日本の4分割統治を開始し現在に至ります。つまり、今現在なんとなくでも兼韓である人々は70年前の計画に乗せられてしまっている人々です。70年前、朝鮮半島や台湾は日本でした。それを分割し、互いに互いが嫌いになる様に計画したのは当時のGHQであり連合軍であり、今の国連、日本は未だに国連による分割統治下にある国連憲章で指定された敵国であり、従って日本は国連の常任理事国には成れないのです。

一方、内地における戦後は、体制や天皇に付いては何を言っても良く自由な発言が出来る様に成りましたが、逆に連合軍に付いての発言は厳しく統制され徹底した検閲によって自由が奪われました。あらゆる出版物・論文・放送・郵便物・電話などが検閲の対象となり連合軍に不利な発言は徹底的に削除され、かつ、連合国を崇める様に誘導するプロパガンダに活用されていました。その影響は未だにメディアに残っています。例えば、日本国内のメディアは大英帝国によるアジア諸国の植民地運営や黒人奴隷の過去や連合軍(主に米兵)が日本人女性に対して行なった売春や 強 姦 に付いては報道しませんが、日本の慰安○問題は頻繁に取り上げています。(伏字や不自然な文字間空白が有るのは以前明記した際にブログがシステム側に削除された為です)。つまり、連合軍批判の禁止と国内体制への批判自由化は今でも習慣として残っています。

次いで、政治犯を即時釈放した事で、戦前・戦中に反体制の思想を持って抑圧されてきた人々が開放され自由に発言する様に成り、逆に、戦前・戦中に体制側の思想を持っていた人々は戦犯として事後法により超法規的(つまり非合法)に裁かれ、言論を封じられ、これらの連合軍による非合法活動はサンフランシスコ講和条約の条文で事後に強制されました。これらの行為により国内で思想を先導する人々が真逆の思想を持った人々にすり替えられています。

この様に、政治犯の釈放なども影響して共産主義思想が広がり、共産党の議席数が増えて行きました。言論や思想は自由化されているハズですが、冷戦構造への脅威から共産主義に対する徹底的な排除が始まり共産主義思想は公職追放の対象に成りました。私は若干右寄りで共産党員ではありませんが、思想の自由をうたいながら同時に思想弾圧を行う事の矛盾には納得出来ません。思想が自由で、自由な発言が許されるのであれば、戦前の体制を称賛する発言や、共産主義を称賛する発言などが、マスコミで取り上げられても良いはずですが、これらの発言をする人々は現在でもマスコミから弾かれてしまう体制になっています。

この様に、戦前・戦中とは真逆の検閲が実施され、かつ、検閲している事を非公開にする事で表向きは言論の自由と称して国民を騙し、検閲方針も極秘とした為に、多くの日本人は未だにGHQがしていた検閲の実態を知らず、そこで行なわれていた多種多様のプロパガンダが真実であり国民の本来の意思であると思い込み、その思い込みや、自身が施された思想誘導に全く気付いていません。

これらの影響で後に学生運動などが起きて共産主義や社会主義的な思想がもてはやされ、今でも日教組はこの影響を色濃く残し日々子供達への教育という名のプロパガンダが継続され続けています。

逆に、皇室の歴史として朝鮮とのゆかりを語ると、なぜか偽右翼(一般には右翼と呼ばれる人々)は猛反発します。
朝鮮や台湾を含むアジアの国々が仲良く団結して大陸や東南アジアを植民地から解放しようと頑張ったのが大東亜共栄圏ですと言っても、なぜか偽右翼の人々は猛反発します。

この様に、連合軍が70年前に仕込んだ検閲とプロパガンダの影響は強烈で、日本4分割統治の為のプロパガンダを鵜呑みにして旧日本の国々を嫌いに成り盲信してしまっている人々が本当に大勢居ます。

---現在、書きかけです---
当時の検閲資料を元に、より詳しく調査した結果を随時追記しております。

 



表紙で時代を追う
黎明期:昭和22年(1947)~昭和23年(1948)
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極々初期の奇譚クラブは正にカストリ誌という言葉が相応しく、粗悪な紙で、まるで同人誌の様に薄く、内容的にも素人による手作り感が否めませんが、狙いは当初からエログロのエッジを目指している事が伝わってきます。最近の同人誌と比べると絵の完成度には雲泥の差が有りますが、読者を選ぶ内容の濃さでは引けをとらないと思います。しかし後に須磨利之が参加しなければ10号を待たづに廃刊となり他のカストリ誌同様に戦後の風俗雑誌として一括に忘れ去られていったであろうという雰囲気も醸し出している様に感じます。

須磨利之初期:昭和23年(1948)~昭和25年(1950)
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須磨利之が参加してからは絵の完成度が格段に向上していますが、それでも初期の頃は少し垢抜けない感じがしますね。タイトルロゴのブの濁点位置が上から下に移動していますが、ロゴデザインとしては未だ定着する前の状態で時々先祖帰りします。

須磨利之後期:昭和26年(1951)~昭和27年(1952)
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この頃からタイトルロゴが定着します。特徴的なブの初出は昭和24年2月25日発行の珍談奇聞讀物集ですが、24年の時点では奇譚の漢字が毛筆っぽいデザインで明朝風のグラフィックデザインが施されたフォントに変わるのは通刊22号 昭和25年7月 珍談と奇聞特集號 からとなり、以後、天星社時代を経て暁出版時代で休刊するまでロゴが踏襲されます。
終戦直後の焼野原時代に始まったB5版の奇譚クラブは、サンフランシスコ条約の発効(つまり表向きの占領終了と部分的主権回復)と同時に須磨利之の絵と供に4月で終了、翌月号の出版は無く、翌々月号(合併号)からA5版へと移行します。この頃には既にロゴが統一され、現代的な雑誌の体裁で完成度も更に高くなっていますが、紙質は表表紙を除いて未だ粗悪な物(目次は若干良質の紙)が利用されています。逆に言うと、この時期は表表紙のみ上質紙が利用され本体表面に糊付けされ、中身と裏表紙は仙花紙のままです。

Chéri Hérouard(La Vie Parisienne)流用:昭和27年(1952)~昭和29年(1954)
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A5版に変わり表紙と供に内容も一新、占領軍による検閲が終了した事もあり、まるで異なる雑誌の様に大きく変貌を遂げエログロの濃度が増してSM専門誌としての色を濃くしてゆきます。紙質も向上しており表表紙と裏表紙が一体と成っています。

特大号(曙書房後期、発禁直前):昭和29年(1954)~昭和30年(1955)
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天星社に鞍替えする直前の奇譚クラブは発禁前夜まで300頁を超える様な特大号を連発し、波に乗って大ブレイク中の様子が伝わってきます。この時期の奇譚クラブは若干暴走気味で目次を見るだけで満腹感があり、表紙の絵柄も野暮ったい感じがします。
出る杭は打たれると云いますが、出た杭として当局にマークされていた面もあるかもしれません。

白表紙時代:昭和30年(1955)~昭和35年(1960)
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特大号の泡が弾けてページ数と厚みが半分に成ってしまいますが値段は1.4倍に値上げしています(インフレを加味しても値上げしている)。
そのぶん濃縮された濃い内容に成っているとも云えそうで家畜人ヤプーはこの時期に登場し、カラー表紙を待たずに去ってゆきました。

白表紙時代の増刊号:昭和33年(1958)~昭和35年(1960)
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白表紙時代でも増刊号はカラー表紙でしたが、それまでのカラフルな多色刷りの表紙と異なり落ち着いた色合いの(とは言えSMを全面に出した四馬孝画が登場する)ダークカラーの表紙に成っています。

カラー表紙復活:昭和35年(1960)
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特大号で暴走し始める前のA5版当初の雰囲気に回帰しているように思われます。

別冊:昭和30年(1955)~昭和31年(1956)
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この時期は、曙書房後期の特大号路線からの教訓なのか、増分を別冊や増刊に振り分けて頁数増加ではなく号数増加で対応している様です。

四馬孝:昭和30年(1955)~昭和31年(1956)
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これ以前にも増刊号の表紙を飾る事はありましたが、この時期は立て続けに本誌の表紙を飾り、それまでの四馬孝画と異なりカラフルな多色刷りと成っています。

Chéri Hérouard再び:昭和36年(1961)~昭和37年(1962)
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再びA5版初期の雰囲気に回帰しています。
この時期、Chéri Hérouard ばかりではないのですが、どうしてもその影響が先行している様に思います。奇譚クラブと言えば、この頃のデザインが一番印象に残っています。

天星社時代後期~暁出版時代:昭和37年(1962)~昭和50年(1975)
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天星社時代の終わり頃から表紙は全て線画・モノクロで統一され、暁出版時代の奇譚クラブは終始この様な簡素な表紙で四馬孝なども含め様々なアーティストの線画・モノクロ画が表紙として採用されていました。
あまり表紙を飾らなくとも固定客に対して安定して売れていた面があるのかもしれず、表紙より中身に注力していたのかもしれません。
この様な簡素な表紙は団鬼六の花と蛇の連載開始と完全に一致している為、花と蛇におんぶに抱っこという面もありそうです。逆に言うと花と蛇の連載及び特集号にカラフルな絵の表紙は一冊もなく、連載全盛期にはグラビアさえも廃止しており、極めつけは昭和45年(1970)8月の臨時増刊、花と蛇決定版で、グラビアどころか挿絵さえも無く活字のみで832頁(1頁は20文字×28行×3段)というSM雑誌としては異例とも言える活字主体の驚異的な長編小説となっており、本誌でグラビアを廃止していた期間なども含め活字に特化していた時期とも言えそうです。
花と蛇の連載が終了してから入れ替わりにグラビアが復活し、グラビアで花と蛇の穴を埋めようとしてか?カラーグラビアなども少しづつ登場し始めますが、この頃に登場していた多数の競合するSM雑誌に対して差別化が難しかった様で数年で休刊と成ってしまいました。活字主体からビジュアル主体へと転向した事で既存の読者が離れていった面も有るかもしれませんし、団鬼六に代わるSM専門の文筆家が登場しなかったという側面もあるかもしれません。

復刊(Franz von Bayrosなど):昭和57年(1982)~昭和58年(1983)
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吉田稔から奇譚クラブの商標権を受け継いだ賀山茂の尽力によって七年越しの復刊となり、表紙は復刊記念号としていますが、目次のタイトルは創刊号となっています。雑誌コード(IBMコード)02805を吉田稔の時代から引き継いでいますので出版業界でも正式に同じ雑誌の扱いです。
前々回のブログ記事でFranz von Bayros の絵からSM的なものを集めてみましたが、まさか復刊号の表紙がそうだったとは今回の記事を書くまで気付きませんでした。いや気付いたのかもしれませんが記憶が曖昧です。

平成版:平成9年(1997)~平成10年(1998)
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創刊号から50周年にあたる平成9年(1997)11月(創刊は1947/11)に新装刊として出版されました。雑誌コードは別物です。
前年にミュシャ展が開かれるなど、この頃の国内では Alfons Mucha の絵が流行し、その影響を受けている様に思います。この頃からアールヌーボー的なものが国内で流行しアニメやコーヒー缶など色々な場面で目にしていた様に思います。
内容的にはSMも扱う風俗雑誌として熟女秘宝館の増刊号として発行され、昭和40年代前半の奇譚クラブに掲載されていた記事やモノクロ写真を数点ほど再掲載しています。
奇譚クラブの原点を探る
 今回の記事は奇譚クラブの原点を探ってみようと思います。

 先日、昭和36年(1961)2月号を読んでいましたら250ページの編集後記に『グロテスク』の雑誌名が登場しておりましたが、原点を探る為の通過点として、まず最初に戦前のエログロナンセンスの波に乗って昭和三年に創刊された『グロテスク』というアングラ雑誌と『奇譚クラブ』を比較してみます。

雑誌『グロテスク』との比較


--表紙比較--

 下記の画像から判る様に雑誌『グロテスク』と『奇譚クラブ』創刊号の表紙が似ている事(特にの絵)が挙げられます。

左 奇譚クラブ創刊号表紙 - 昭和二十二年(1947) 十一月
右 グロテスク 第二巻 第二号 - 昭和四年(1929) 二月
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龍の絵比較(クリックして拡大すると良く判ります)
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 耳の形、髭の垂れ下がり、背鰭の形、鱗の付き方、爪の形と本数、尻尾の形、どう考えてもグロテスクの表紙を見ながら描いたとしか思えないデザインです。但し、グロテスクの龍も何かを手本としている可能性が有り、同じ龍の絵を手本としている可能性も否定出来ません。

 戦前のグロテスクはカラフルですが、終戦直後の物資が不足していた時代に創刊された奇譚クラブが2色刷りに成っているのは時代背景を考慮に入れるとやむおえない当然の結果ではないかと思います。

--掲載内容比較--

奇譚クラブ 創刊号 目次、奥付
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グロテスク第二巻 第二号目次、奥付
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類似カテゴリ:
 刑罰:グロテスクでは世界残虐刑罰史、奇譚クラブでは第3号で江戸残虐拷問と刑罰など。
 人喰い:グロテスクが口絵で人喰い娘を描き、奇譚クラブでは創刊号で人肉の味と題した記事など。
 トランスジェンダー:グロテスクで変生男子之説として性転換の記事、奇譚クラブでは第2号で男妾、第3号で男娼。
 海外風俗:グロテスクではカーマスートラやデカメロンを紹介、奇譚クラブでは第3号で海外風俗めぐり。

著者のペンネーム:
 奇譚クラブで活躍した畔亭数久(クロテイカズヒサ、畦亭数久、数久操)は“くろてぃすく”又は“ぐろてすく”とも読め、またその様に読み仮名が付けられている事も有る様です(但し、だからといって雑誌『グロテスク』から名前をとったとは限りませんが)。


--出版形態と発行人の比較--

 雑誌『グロテスク』を発行していた梅原北明という人物は、出版法違反(風俗壊乱罪)などで昭和二年に罰金刑が確定し前科持ちに成り、併せて発禁処分を度々受けていますが発行所をグロテスク社、文藝市場社、談奇館書局という様に変えてアングラ雑誌を昭和八年まで発行を続けています(昭和八年からは時代背景などもあり、女学校の英語教師に成っている)。

 雑誌『奇譚クラブ』を発行していた吉田稔も同様にわいせつ物頒布罪で昭和27年に有罪が確定し罰金刑を受けて前科持ちに成り、併せて発禁処分を度々受けていますが発行所を曙書房、天星社、暁出版(大阪)というように変えて発行を続けています。

以上の様に、吉田稔は梅原北明の、ある種の模倣犯であったのではないか?と思えてきました。

しかし梅原北明の様な人物が女学校の教師に成るというのも、もし女学校の関係者周辺がその正体を知っていれば物議を醸したでしょうね・・・

雑誌『エロエロ草紙』との比較
※発禁本ですから直接見て真似るのは困難だったかもしれません。


昭和5年、上記の『グロテスク』と同じ時代、梅原北明と並んでエログロナンセンスの代表格とされる酒井潔が刊行しようとして発禁処分となった『エロエロ草紙』なる雑誌が最近密かなブームと成り復刻版が今年の6月に出版されました

ざっと見て頂けると判りますが、奇譚クラブが La Vie Parisienne の絵を多用したのと同様に La Vie Parisienne で活躍した画家の絵(又は模写)が多数有ります。

例1:
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この絵はエロエロ草紙18ページに掲載されている物ですが、奇譚クラブで活躍した畔亭数久に画風が酷似しています。この絵を見た瞬間、私(龍)は畔亭数久の絵だと直感したのですが、残念ながら酒井潔は昭和27年没である為、昭和29年頃から活躍し始めた畔亭数久とは別人であろうと思われます。何者かによるCheri Herouard作品の模写ではないかと思いますが、作者が記載されておりません。

例2:
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左は La Vie Parisienne に掲載されたオリジナルのGeorge Léonnec作と思われる絵、右はエロエロ草紙33ページに掲載された絵。良く見ると細部が微妙に異なりますので、酒井潔(又は他の誰か)が La Vie Parisienne 誌を見て模写したものと思われます。

例3:
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この絵は、左下に Léo Fontan のサインが有りますが、この人物もやはり La Vie Parisienne 誌で活躍した画家の一人です。エロエロ草紙の49ページに掲載されています。

法体系として著作権などが整備されたのは、かなり後に成ってからですから、エロエロ草紙が発禁とされた当時は著作権に付いては野放しだったのかもしれません。しかし戦後はサンフランシスコ条約に基づき連合国(つまりフランスも含む)の著作物に対しては戦前の物も含めて保護された様ですから、奇譚クラブに対しても何らかのアクションが有ったかもしれません。

--書き掛け--
 
結論


※書き掛けでありながら、結論を書いてみます。追記は結論に対する補強に成ってしまう可能性大ですが・・・

創刊当時の奇譚クラブは、二次大戦で途絶えていた戦前のエログロナンセンスの流れを踏襲・復活させ、特にエログロに特化したものを作ろうとしていたのではないかと思います。当時は未だSMという言葉が無くジャンルとして確立していませんでしたが、志向としてはアブノーマル・変態・SMといった物の先端を当初から目指していたと言えると思います。GHQによる検閲に屈するまでは・・・
Franz von Bayros
Franz von Bayros (1866 – 1924)は、前回の記事で書きましたChéri Hérouard (1881 - 1961)より遡る15年ほど早く生まれた画家・イラストレータで、エロティックなSM画を遺しています。後期のハプスブルグ帝国/オーストリア=ハンガリー帝国時代のザグレブ(現:クロアチア)に生まれ育ち、フランスに滞在していた時期が有る事からChéri Hérouardとも何らかの繋がりが有ったかもしれません。

彼は、作曲家・ワルツ王として名高いJohann Strauss II (1825 - 1899)の養女と結婚している事から、それなりの家柄という事がうかがえると思います。といいますか、そもそも von と綴っているのですから貴族又は準貴族(=領地所有を認められ不労所得が有った)であろうと思われます。

例によってネットから適当に拾ってきた絵です。コメントは私(龍)の率直な感想であり、真実とはイコールでない可能性が有ります。

全体を通して、無毛または非常に薄い毛で描かれている事が多い様です。

最初に私が軽い衝撃を受けた絵はこれです。
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今から100年以上も昔にこんな絵が描かれていた事に軽い衝撃を受けました。
但し、当時、紙が高価だった頃は(本邦に於いても)トイレの後に似た光景が日常的に有った様ですから、責めではなくトイレ後にそういった類似の行為をしているだけなのかもしれません。しかし横でそれを眺めている少女や、跨いでいる女性本人の恍惚とした表情などが色々な想像を掻き立てます。誰かに命令されてやっているのか?それとも自ら跨いで擦り付けたのか?などなど・・・

こちらは、どこかの神社の御神体の様な巨大なブロンズ像?に少女が拘束されており、後ろに控えた女性が鞭を隠し持っている事が判ります。
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ブロンズ像らしき物の下には火をくべて有りますが、この熱が徐々に像を伝って拘束された少女に伝わり、じわじわと灼熱地獄に、或いは炎の先端が女性自身を炙り・・・

この絵は太い柱に紐で拘束された女性を鞭で責めている絵ですが、
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責め側の男性らしき人物の履物がハイヒールという点に興味を持ちました。同時代の男性には現代の女性が履く様なハイヒールを履く習慣が有ったのか?それとも、フェチ的な趣味趣向で履いて(履かせて)いるのか?

こちらは、孔雀の羽を使ったスパンキングの様に見えますが、その効果は私には全く想像が付きません。
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私(龍)が子供の頃、近所に住んでいた方が孔雀を数種数匹飼っていた為、孔雀の羽がそれ程硬くない、せいぜいハタキ程度の効果しか(孔雀の羽は結構硬い様です、子供の頃の記憶はあてに成りませんでした)・・・と書いていて気付きましたが、これは恐らく彼の地での当時のハタキですね。ハイヤーの運転手が車を掃除する時に類似の物を見掛けるような気がします。毛を取り除いて芯だけにして数本束ねたら結構な威力が有りそうな気がします。

これは見たまま吊りですね。
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足首を縛った縄が食い込まない様にあて布(又は革)を巻いてあり、それなりに考慮されて書かれている様です。はたで見ている放蕩貴族っぽい成年の竿がカワイイですね。

こちらは女主人と黒人奴隷の構図に見えますが・・・
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この絵には The Rival というタイトルが付けられていましたので、旦那の愛人・妾に成った黒人奴隷を何かと理由を付けて日常的にイビリ責める本妻という構図かもしれません。
彼の描く黒人は痩せている事が多いのですが、この黒人女性は肉付きが良いので健康的な食生活を可能とする待遇が与えられていた事を示している様に思います。
犬は、黒人奴隷のスカートに隠れる旦那を暗に(そう思いたい人向けに)表現している様にも見えます。

こちらは背景等から察するに広大な領地を有する支配層の女性が、罪人、敵地の住人、使用人などをズラリと並べて拘束させ、その処分を考えているのではないでしょうか?
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手にした鞭は、その形や長さからDressage whipではないかと思われます。
この女性自身も胸を露出している事から、単なる刑罰ではなく、性的な意味合いを多分に含んだ状況ではないでしょうか?

この絵の特徴は、今まさに切り落とされようとしている状況で男性がエレクトしている事ではないでしょうか?
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つまり、作者はMであった可能性が有りそうです。

この絵は黒人奴隷にクンニリングスをさせながら自身は手で相手の秘部を悪戯しつつ、時々臀部を叩いていたようなシチュエーションではないでしょうか?
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手に持っている物が何か判りませんが、紐っぽいですね。

こちらはSMとは直接関係有りませんが・・・
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当時から、こんな物が有った事に驚きました。或いは贋作か?

最後に、SMとは全く関係ありませんが・・・
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ちょんまげ+花魁?でしょうか?
辮髪の生首らしき物を持っている事が何かを物語っている様に思います。
当時は日英同盟から日露戦争へと続く時代と重なっており、日本がヨーロッパで認知され始めた頃、そういった関係で描かれたものかもしれませんね。
Cheri Herouard
Chéri Hérouard (1881 - 1961) (今から100年程前に活躍したフランスの画家/イラストレータ、主に La Vie Parisienne 誌で活躍、当時のイラストが奇譚クラブの表紙絵として多数採用されていた、責め絵で有名な伊藤晴雨(1882 - 1961)と生没及び活躍年代がほぼ同じ) に付いて、主にSM画をネットで集めてみました。

彼はコミック形式の絵と文章を織り交ぜストーリー仕立てにした出版物のパイオニアとしても知られていた様です。
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余談ですが畔亭数久は、彼の画風のみならずコミック形式も真似ており、彼の作品と同様に吹き出しではなく欄外に台詞を記載した漫画を奇譚クラブに寄稿しています。

ここから本題に入りますが、彼はSM画を描く際にHerricというペンネームを使って他の仕事と区別していた様です(下図参照)。
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100年前、既にSM漫画の原型とも言える物(但しSM画はマンガの様な体裁にはされていなかった様ですが)がここまでの完成度で存在していた事に驚愕します。この当時、日本は明治~大正時代であり艶本の様な文化が既に日本にも有りましたが、印刷・製本の技術を残して時代と伴にその中身(文化・コンテンツ)は忘れ去られ、こういった西洋の文化・コンテンツに入れ替えられていった様に思います。

Chéri Hérouard の描くSM画の傾向として鞭打ちやスパンキング等の打撃系が多く、打撃部位が殆ど尻に限定しており、他の絵やイラストと異なり男性は殆ど登場せず、また、メイドが多数登場するのも特徴と言えます。但し、ネットで拾った画像を並べてそう感じただけの事で、実際にはもっと多種多様の責絵が有るのかもしれません(つまりネットにアップした人物の趣味趣向が女同士かつ打撃系が好きだっただけという可能性もあります)
※下の画像は適当に拾ってきたので、もしかしたら別の画家の絵が混じっているかもしれません(とは言え画風や特徴等から恐らく全て本人の作ではないかと思われます)。

●ストックウィップ
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左側の4枚は良いとして、一番右の絵は鞭を振り下ろす位置に無理が有りますね。一番右は構図として若干失敗している感があります。但し、メイドが鞭の扱いに慣れていないことを表現しているのかもしれず、ストーリーを付ければ失敗どころか正確な描写とも言えそうです。左から2番目は高確率で自分自身の足に鞭の先端が当たる気がしますが、熟練者ならそんな心配も不要でしょう。

●短鞭
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左の絵は下敷きにされている女性が鞍(又は鞍褥)として固定され馬の尻と尻を並べている格好が奇抜で好きです。右の絵は黒い衣装を着せた女性が青毛の馬役なのかもしれませんね。

●キャットオブナインテイル(左)/バラ鞭(右)
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ありがちな構図なので特にコメントは有りません。

●ベルト
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バックル側を先端にして振りかざしている為、危険というか強烈でしょう。バックルの尖った先端が突き刺さり一発目で流血沙汰に成る可能性もありますので真似されない様に(バックル側を持ちましょう)・・・

●バーチング (Birching)
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素材は恐らく樺や柳の枝を束ねたもので、恐らく棘の有る状態で乾燥させて束ねた物ではないかと思います。使用時には塩水に漬けてから使う事も多く、打撃による直接の痛みではなく、棘による細かな無数の刺激と、その後に襲って来る細かな裂傷からくる痛痒さを狙った責めではないかと思われます。

●ハンドスパンキング
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一番右の絵はスパンキングではなく単にエロオヤジがスカートを捲って下着を覗いているだけかもしれませんが、スタイルとしてはOTK(Over the Knee)の導入部分の様に見えた為、掲載しました。

●拘束具
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●吊り
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●浣腸又は膣内洗浄か?それともローション注入?
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これがもしローション注入とするなら、あまり好きではないが家柄が目当てで嫁いだ先でメイドに指示して入れさせているようなシーンかもしれません。但し、それにしては器具が大き過ぎるので、やはり浣腸又は膣内洗浄でしょう。膣内洗浄とするなら洗浄液の受け皿やタオルが描かれていませんので、残るは浣腸という事に成りそうです。浣腸とするなら便秘解消の為に女性本人がメイドに指示してやらせていると思われ、いづれにしろ、男性はそれを壁の穴から覗いているという事ではないでしょうか?

●女主人と奴隷
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●その他
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一番右のイラストはSMと言えるかどうか微妙ですが、正座した女性が中腰で目の前に立っている女性の菊座に息を吹きかけているシーンの様に見えます。正座した女性(又は彼女に命令した人物)が相手の菊座がヒクヒクするのを見て楽しんでいるとするなら私の大好きな分野です。残念なのは立っている女性の表情に恥ずかしさがあまり表れていない事です。他にどんなシーンが想定されるでしょうか?あとはこの時の台詞次第ですね・・・

●乗馬
SMとは直接関係ありませんが、なかなか正確に馬装と馬の表情を描いているので掲載してみました。乗馬に深く関っていないと、ここまで正確に馬装や表情を描く事は難しいと思います。
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大勒・水勒(小勒)をセットにした頭絡にアマゾン鞍、水勒手綱にはマルタンガールが取り付けられており、大勒手綱のみを片手手綱でルーズに持ち、もう片方の手で猟騎鞭を持ち正装をしている事から、恐らく狐狩りの前にリラックスして何かを待ちつつイヌの様子を見ている風景ではないでしょうか?野外騎乗で大勒をルーズに持つ手法はウエスタンでは一般的ですが、狐狩りの様な激しい運動を長時間する際にも同様の手綱捌きが有効なのは容易に想像出来ます。戦前の騎兵隊の写真を見た事が有りますが同様に大小付けて乗っており、大勒手綱のみを片手手綱でルーズに持っていましたので、野外騎乗で大小付ける時はこういった握り方が一般的だったのかもしれません(私は馬場内でしか大小付けた事がありません。野外はウエスタンの馬装でルーズレインにするか、水勒でタイトに口当たりを探ります、但し長時間の野外で水勒は精神的に疲れます)。後ほど文献など漁ってみようと思います。馬の耳が前方を向いておりますので、馬は若干緊張しながら周囲(特に前方数m~数十m先)に気を配っている様です。ここまで正確だと写真をトレーシングペーパーの様な物で丁寧に転写したのかもしれませんね。